春の広島商戦の寝違いが江川のいう「マイナスの雨」なら、夏の銚子商戦は雨が「プラス」をもたらしてくれた…。

 73年(昭48)8月16日、2回戦の銚子商戦。8回ごろから降り出した雨は、延長戦に入るとさらに強く降り続けた。銚子商の一塁手、岩井美樹は言う。「(銚子商2年生投手)土屋(正勝)が投げるときはパラパラで、江川が投げるときは雨脚が強くなった」。

 作新の控え投手、大橋康延は試合前、甲子園近くのグラウンドで行われた練習の時から江川の異変に気づいていた。「なんか、だるそうだな」と、自らの登板を準備した。

 江川の疲れは、もう隠せない領域に達していた。甲子園に至る県大会で、ノーヒットノーラン3試合、44イニング連続無失点、被安打2、奪三振率15・34、防御率0・00…。尋常ではない数字で勝ち上がってきた。完全試合を狙った試合では、チームの「不和」が露呈、嫌なムードを引きずり、徒労感はなお募った。他のナインもまた同様だった。

 センバツ後、遠征のため毎金曜午後から福岡へ、富山へ、沖縄へ…。名門松山商(愛媛)のように栃木まで遠征して来るチームもあった。当時の監督、一色俊作(13年4月24日、75歳で死去)が、2年生エースの西本聖に、江川の直球を体感させる狙いがあった。

 「江川さんは夏に絶対(甲子園に)出てくる。オレたちも出て対戦するときの“予行演習”。けど、次元が違った」。その後巨人で江川とライバルになる男は、あっさり力の差を認めた。松山商は16三振で0封される。

 気の抜けない試合の連続、記録がからむ江川の登板、大勢のファンからの注目、押しかける報道陣…。亀岡偉民は言う。「江川は自分だけが目立つのを嫌ってた。『チーム全員に話を聞かないなら、取材は受けない』と」。取材陣への無愛想対応に拍車がかかった。

 遠征が続くと、「怪物」の生命線だった走り込みは減った。すると「なぜ江川は走らないんだ」という野手陣の不満となり、それは亀岡偉民にぶつけられ、また溝は深まった。夏の県大会のチーム打率が「2割4厘」と不振をかこつ打撃陣。チームは分裂ぎみだった。

 車軸を流すような雨がグラウンドを泥田にした。亀岡偉民はそのつどマウンドにいき、江川からロジンバッグを借りるふりをしてぬれないようにボールを渡した。

 スコアは0-0のまま。「この回が終われば再試合」。高野連が判断した、運命の延長12回裏がやってきた。江川は、先頭に四球を許す。「怪物」が崩れる、それが合図だった。1死一、三塁から満塁策をとる。迎えた2番打者へのカウント2-2からの5球目。明らかに雨で滑ってすっぽ抜けた。

 フルカウント。江川は自らタイムを要求、内野陣を集めた。

 「真っすぐを、力いっぱい投げたい。それでいいか?」。江川がそう言うと、「好きに投げろ。お前がいたから、ここまで来られたんだから」と返す声があった。反目していた一塁の鈴木秀男だった。全員が「そうだよ」と声をそろえた。

 唯一、自分の意思だけで行動できるはずだった場所で、江川は“禁”を破った。「あの場面は別だった。みんなに言ってから投げたかった」。

 6球目は高めに浮き、押し出しのサヨナラ負けとなった。「決して滑ったわけじゃない。指にかかっていた。ストライクを入れようなんて思わない。押し出しでも、ここで終わった方がいいと思った。一番速い球を投げるんだ、それだけだった。内容はひどいけど“8・16”が、オレの高校野球のベストゲーム」と言い切った。

 皮肉にもサヨナラ敗戦の直前、「完全試合」が消された氏家戦からの「きしみ音」は雨によって希釈され、チームが1つにまとまった実感があった。

 雨中の甲子園にいながら、江川はその時、遠雷と夕立に煙る作新のグラウンドに、「夢の場所」へ歩みだした頃の仲間とともに、確かに立っていた。

(敬称略=おわり)

【玉置肇】

(2017年4月19日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)