板東は延長18回を投げ抜いた。18回裏。1死からこの試合唯一の長打となる二塁打を浴びた。だが、三塁を狙った打者走者がアウトに。3時間38分の熱闘。最後のアウトは、この試合25個目となる三振だった。引き分け再試合が決まった。宿舎のある西宮市内の都旅館に戻ったチームのぐったりした様子を徳島商捕手の大宮秀吉が振り返った。

 大宮 その夜、宿舎の食事は差し入れの牛肉やったように思います。すき焼きです。でも、それを食べてるのは補欠ばっかりでした。私たちレギュラー組は疲れて食べれなかったです。そうでなくてもあの大会は牛乳とご飯、その合間に青りんごをかじるぐらいでした。

 そんな疲労感が漂うなか、涼しげな顔をしている男が1人いた。板東だ。

 板東 僕は疲れてなかった。試合後の新聞記者の囲みでも「疲れていません」と答えたと思いますよ。それで板東は生意気やと受けとられたのかもしれません。でも、ほんま甲子園のナイターはきれいやし、涼しい風が吹いて気持ちが良かったんです。なにより氷の入った冷たい麦茶が飲めた。これが格別のごちそうでした。

 徳島商は延長18回表に最大のチャンスを迎えたが、板東を援護することはできなかった。1死から大野護の二塁内野安打、大宮が四球を選んだ。1死一、三塁になった後、7番大坂雅彦はスクイズ失敗の捕邪飛。監督の須本憲一は2死一、三塁になった8番玉置秀雄の打席でダブルスチールのサインを繰り出したが、三塁走者大野がホームで憤死した。

 大宮 ダブルスチールの場面で一塁走者だった私は二塁手前で「おとり」になろうと思ったんですが、三塁走者大野のスタートが早かった。魚津の捕手からの送球を二塁手の平内にカットされてホームで刺されました。

 魚津の村椿輝雄はこの絶体絶命を切り抜けた場面を覚えていた。

 村椿 私がスクイズを外せたのは高い球を投げたからです。ダブルスチールを防げたのも、うちの守りがよかったから。監督の宮武さんにはよくサインプレーを練習させられました。

 延長18回を戦った末に再試合となった準々決勝は翌8月17日に行われた。徳島商は板東がマウンドに上がったが、魚津の村椿は1年生の森内正親に先発を譲った後、リリーフで登場した。

 村椿 私は当然投げるもんだと思っていましたが、翌朝投げなくてもいいとなった。さすがに自分から投げさせてくれとは言えなかったです。

 一方、板東は前日の試合で膝を痛めて注射を打ちながらのピッチングだった。それでも9回を投げきって、徳島商を3-1で勝利に導いた。被安打は5、奪った三振は9つだった。

 板東 僕は村椿が出てこないんで驚いたんです。そんなんありかいな、と思いました。僕らではあり得ない。だってうちにはピッチャーは僕しかいないんですもん。僕らは勝ちたいじゃなしに負けたら怒られるのがいやでいやで、とにかく三振をとらんと怒られるんですからね…。

 周囲は盛り上がって、板東は気丈だったが、疲労の影は忍び寄っていた。(敬称略=つづく)

【寺尾博和】

 ◆当時の日刊スポーツ 58年8月16日の延長18回引き分けを報じた同17日付の日刊スポーツには、板東のコメントが以下のように掲載されている。「調子は良くなかった。バックの好守に守られて投げきったかたちです。あと五回くらいなら投げられます。ただ腹がへったのには弱った。あすも頑張ります」。同17日の再試合を報じた同18日付紙面では「疲れなんか平気です、メシさえ食えば……」というコメントが紹介されていた。また、「さんざん報道陣の質問攻めにあったあと、ある記者の肩をポンと叩いて“いろいろご苦労さんでした”といった」との記述もある。(表記は当時のまま)

(2017年5月6日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)