95年の赴任当初、全国屈指の強豪だったアイスホッケー部やサッカー部が肩で風を切る横で、室蘭地区予選すら突破できない駒大苫小牧野球部は目立たなく、香田の言葉を借りれば「暗くて、地味で、情けなかった」。そんな情けないチームを形にするには、どうしたらいいのか。技術がないなら、せめて恥ずかしくない態度を身に付けさせたい、と考えた。

自転車で球場まで移動する時に2人乗りはしない。カバンや靴はきれいに並べて置く。返事、あいさつはきちんとする。「野球はすぐにうまくなれないけど、そういう部分は変われるだろ」。駒大苫小牧といえば、大きな声でのあいさつ、道具を扱う際の気配りなど、今や道内一と言っていい。むしろ徹底されすぎていて怖いくらいだが、土台はこの頃に作られた。

24歳の熱血監督と甲子園など夢にも思わなかった高校球児の距離は、簡単には縮まらなかった。それでも、当時の話になると、香田の表情はパッと輝く。

香田 あの頃が一番面白かったな。あいつらのおかげで勉強になったし、あのスタートがあったから、その後もあった。

赴任して2年目の96年夏、さっそく結果が表れた。室蘭地区で春の北海道大会を制した苫小牧工を撃破し、13年ぶりに南北海道大会へ駒を進めたのだ。南北海道大会では初戦突破も、準々決勝で北海に2-3で敗退。紙一重の勝負だった。勝った北海は、甲子園出場を決めた。

香田 悔しくて、球場を出る時に泣いていた。あの時、甲子園との距離が見えた気がした。泣きながらも明確な自信が湧いてきた。

97年以降、駒大苫小牧は室蘭地区を勝ち上がり南北海道大会の常連となっていく。道具を一切使わない駒苫名物の想定練習や人さし指を掲げるNO・1ポーズ、そして雪上ノック。あふれ出るアイデアが全国制覇への道を加速させた。

当時、北海道でしのぎを削った指導者たちが香田を語る時、必ずと言っていいほど口にするのが「徹底力」や「反骨心」という言葉だった。同じ71年生まれで古豪・北海の監督として16年夏の甲子園で準優勝した平川敦(46)は言う。

平川 駒苫といえば、やっぱり機動力。野球自体が違った。リードの出方、走るタイミング、ベース前の加速の仕方、ランナーの意欲も常に全力。熱くて、激しくて、泥臭い。

フライでも、走者は次の塁にスライディングをしてからベンチへ戻った。守備のミスを想定しているからだ。「あんな無駄なことをさせて、どうするんだ」。あざける人もいたが「常にやっているから、とっさにできる」と平川は思っていた。

一瞬でも、諦めない。夏の甲子園で常勝を誇った04~06年の3大会は、14勝のうち逆転勝ちが8試合。5点差、6点差もはね返した。もちろん、運はあった。驚くような投手起用がはまり、監督のサインミスを選手が救った。勝機では吹奏楽部員が奏でるチャンステーマに乗って、一気に相手をのみ込む猛攻撃。その戦いぶりは、香田がチームへ注ぎ込んだ信念を如実に表し、勝利の女神を魅了した。(敬称略=つづく)【中島宙恵】

(2018年1月30日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)