愛工大名電が元気だ。春季愛知県大会では25日に東邦を破って4強に進出。春9回、夏12回の甲子園出場を誇り、05年センバツ優勝の名門には「イチローが歩んだ道」が今も息づく。日米通算4367安打を放ったイチロー氏(47=マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクター)の母校で後輩が夏の甲子園を目指す。不世出の大打者は高校時代から型破りだった。当時、コーチとして指導した倉野光生監督(62)らに聞いた。ナインに受け継がれている野球への情熱に迫る。【取材・構成=酒井俊作】
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愛工大名電にはナインに語り継がれる“怪談”がある。「夜遅く、合宿所にお化けが出るという話がありまして…」。ある選手が切り出し、続ける。「監督さんも『ウソだろう』と。お化けが出るところまで行ったら…」。合宿所の隣の室内練習場の奥から音がする。「そこに行ったらイチローさんが夜遅くまで真っ暗闇の中でバットを振っていたそうです」。希代の大打者らしい伝説だろう。
まだ、イチロー氏が「鈴木一朗」だった頃の話は甲子園を目指すナインにとってバイブルになっている。89年から91年まで、コーチとして指導した倉野監督は「自分を知って、自分の練習に特化していました」と当時の鈴木を思い起こす。
「彼は1年生の頃は練習でも試合でも、三遊間のゴロしか打たなかった。そこしか打たないし、引っ張らないんですね。2年生になったらセンター前。投手の足元を抜けていく。3年生になったらライトオーバー。1年ずつ進化していく」
鈴木は入学当初から自発的だった。倉野監督は「自分の体と相手の力と、先を見据えてやっていく。自分の計画、ビジョンです。それくらい徹底していた」と続ける。打球方向を大きく3つに分ける。色気を出して強引に引っ張れば投手側の肩は早く開いて打撃が崩れやすい。非力な1年目は壁を作って逆方向へ。中堅、右翼への引っ張り…。理にかなった動きを追求し、3年間で3方向の打撃を地道に固めていく。普通の16歳の考え方ではなかった。
いま、ナインは春日井市内の合宿所で暮らす。1階廊下には資料が張られている。目につくところにあるのが、鈴木の高校時代の成績を示す「イチロー3カ年打撃通算成績」と自筆の野球ノートだ。3年春の試合反省リポートに「次の試合ではもう少しみんなの気持ちに入りこんでもりあげてみせます」とチームへの思いを記し、倉野監督が「チームリーダーとしての大きさ、心の広さを感じる考え方です」と注釈を書き込んでいた。当時の足跡は、いつしか道になっていた。
倉野監督は言う。「選手にはイチローの話もよくしています。田村には最初の1年は引っ張るな、レフトに打てと言い続けました」。今秋ドラフト候補の田村俊介投手(3年)は最速145キロ&高校通算27本塁打の二刀流だ。田村も「練習でも逆方向、三遊間にライナーを打つ練習をしてきました。監督の助言を聞いて打てるようになりました」とうなずく。そして“怪談”の主役に思いをはせる。
「イチローさんは人が見ていない、暗いところでバットを振っていたと聞いてます。上に行くためには、見ていないところでの努力が大事だと思います」
野球を志す若者は、32年前に異彩を放った高校生の背中を追いかけている。(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「野球手帳」)
◆倉野光生(くらの・みつお)1958年(昭33)11月7日、名古屋市生まれ。名古屋電気(現愛工大名電)、愛知工大では主将で捕手。81年卒業と同時に名古屋電気コーチに。97年秋に監督就任した。05年センバツで優勝に導き、04年もセンバツ準優勝。主な教え子に工藤公康(現ソフトバンク監督)イチロー、山崎武司(楽天など)ら。
◆愛工大名電 1912年(大元)に創立された私立校。校訓は誠実・勤勉で普通科、科学技術科、情報科学科に男女が学ぶ。野球部は1955年(昭30)創部。甲子園は春9度で優勝1度。夏は12度出場。野球部員は51人。所在地は名古屋市千種区若水3の2の12。岩間博校長。




