広島商の元監督、迫田穆成(よしあき)さんが12月1日、膵臓(すいぞう)がんのため、84歳で亡くなった。広島商の監督退任後も、高校日本代表や如水館(広島)の監督などを歴任。19年から竹原(広島)を指揮し、最期まで現役の指導者だった。

「怪物」と言われた作新学院(栃木)のエース江川卓を、73年選抜大会で迫田さん率いる広島商が撃破。伝説の名勝負を取り上げた企画原稿で、迫田さんを取材した。とつとつとして、ときにはひょうきんな語り口なのに、言葉に迫力があった。

73年の夏、広島商は春に続いて甲子園大会の決勝に進んだ。相手は静岡。8月22日の甲子園には、当時の動員記録を塗り替える5万8000人の大観衆が詰めかけた。2-2で迎えた9回裏1死満塁。打席の大利裕二のカウント2-2から、迫田さんは3バントスクイズのサインを出した。内角低めへの1球をとらえ、大利は三塁前に決勝のスクイズ(安打)を決めた。相手も大観衆もあっけに取られた。実際にやれるかどうかもわからない作戦のため、広島商は来る日も来る日も練習を重ねてきたという。「1度きりしか使えないものをいくつ持つか。どれだけそれに練習時間をかけられるか」という監督の執念が実った、必殺の作戦だった。

その話を聞いたとき、言葉にこもる迫力の正体は信念かと思った。

言葉選びも絶妙だった。

教え子の1人、広島元監督の達川光男さんは広島商の入学式直後の野球部初練習で、迫田さんにこんな言葉をかけられた。「甲子園の優勝戦でサヨナラエラーをしても、まわりから許してもらえる選手になりなさい」という言葉。「意味が分からんかった。普通は『サヨナラヒットを打てる選手になれ』と言われるもの。でも監督は『普段の態度こそ大事』と教えてくれていた。懸命に練習し、近所の人にきちんとあいさつしていたら『あの子がやったことなら』と思ってもらえるんだ」と達川さんは述懐した。

決勝後、監督を胴上げしようとした選手たちを迫田さんは制した。「甲子園でいい相手に恵まれたからこそ、今の喜びがある。相手の気持ちを考えなさい」と言って聞かせた。江川ら好敵手に巡り合い、力の限り戦えたことこそ最上の喜び。信念を貫き、たどり着いたゴールはそこにあった。

取材を終えた帰り際、迫田さんから箱をいただいた。「陶芸をしている娘が作ったんですよ」という言葉に促されて開けてみると、2組のカップが入っていた。少々のことでは割れそうにない、厚地のカップ。強靱(きょうじん)なDNAが、がっしりとしたフォルムに見えた。【堀まどか】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「野球手帳」)

1973年8月、サヨナラで優勝を決め大喜びの広島商ナイン
1973年8月、サヨナラで優勝を決め大喜びの広島商ナイン
1973年4月、広島商に敗戦し、うなだれる江川卓(中央)ら作新学院ナイン
1973年4月、広島商に敗戦し、うなだれる江川卓(中央)ら作新学院ナイン