山口高志。野球好きなら誰もが知る阪急ブレーブス往年の剛速球投手だ。史上最も速い球を投げた男では…という声もある。同時に阪神に残した功績も大きいのだ。5月15日は山口の誕生日だ。1950年生まれなので70歳。古希である山口に聞きたいことがあった。
なぜあのとき阪神に来たのですか? オリックスのスカウトから阪神の投手コーチになったのは03年。自分が担当キャップだった時代なのに、はっきり思い出せない。「今更ですが…」と電話をしてみた。
「そんなん、オレの意向なんか関係ないねん。『おい。お前もそろそろユニホーム着んかい! 島野(育夫)に連絡させるからな』。そう電話があって。それでしまいやんか」
笑いながら言う山口の答えは明瞭だった。昭和の剛球投手にそんなことを言い放ったのは、あの男。闘将・星野仙一だ。
山口には阪急で同学年、チームメートに捕手の加藤安雄がいた。加藤の経歴は倉敷商-明大-熊谷組だ。高校、大学で星野の後輩である。星野が加藤と食事するとき、山口も同席した。そこからのつき合いだ。
阪神ではまず2軍投手コーチ。藤川球児をスターダムに押し上げるキッカケをつくった。沈み込む傾向のあったフォームの球児に対し、右膝を伸ばすことを意識させたというのは知られる話だ。だが山口はそんな自慢話はしない。
「球児が化けるときにいっしょにおったというだけのことやろ。教えることの基本はみんな同じなんやから。あいつに教えられたからうまくいかなかった…と思っている選手もいるかもしれんし」
イチロー擁する仰木オリックスのリーグ連覇(95、96年)に投手コーチとして貢献。阪神でも2度の優勝に尽力した。スカウトになってからは関大の後輩・岩田稔の獲得に成功した。岩田も息の長い選手になっている。
「子どものときは阪神ファンでな。村山実さんにあこがれて。関大に入ったし、よけいにな。村山さんと同じ時期にプレーはできなかったけど阪神とのオープン戦は楽しみやったね」
子ども時代から好きだった阪神のユニホームがプロでは最後になった山口。現在は関大野球部のアドバイザリー・スタッフだ。しかしコロナ禍で活動は休止中である。
「毎日、10キロを歩いているよ。それが仕事みたいなもんや。学生も大変やろう。そろそろ練習できるんかな…」。野球を愛し、阪急、阪神に尽くした男もファン同様、遅い球春を待ちこがれている。(敬称略)