留萌が旭川農を延長11回の末、10-5で下し初戦突破した。途中出場の古岡拓巳外野手(3年)が11回無死一、二塁で勝ち越しの左中間二塁打を放った。昨秋は背番号1だったが、最後の夏は背番号10で控え投手兼代打の切り札として勝利に貢献。ちょうど50年前の71年夏甲子園出場時の監督で、6月7日に亡くなった織田堅持さん(享年83)に、1勝をささげた。

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チームを救ったのは、不遇続きの古岡だった。延長11回無死一、二塁、1ボールからの2球目を振り抜くと打球は左中間を真っ二つ。一気に二塁へ到達すると右手を掲げ、喜びを爆発させた。「3番からの打順。ここが勝負だと思って集中できた」。7回に代打で出場してから、3打数2安打2打点と気を吐いた。

昨秋は背番号1。地区初戦(旭川実戦)に先発し1回0/3 6失点で降板した。「調子が上がらなくて、秋以降は外野の練習も始めた」。今春の地区予選は登板がなく、最後の夏に与えられたのは10番だった。今春から就任の阿部隆厚監督(48)は「投球の調子は良くなかったが打撃はいいものがある。序盤の流れを見て、これは古岡の力が必要だと考えた」。外野守備のキャリアは浅かったが、代打の後も中堅、右翼手として守備に残し、古岡も勝負どころで貴重な一打を放ち、期待にこたえた。

71年の甲子園出場から50年。6月7日に、当時指揮した織田堅持さんが83歳で天国へ旅立った。この日、チームは出発前に、グラウンド前にある出場記念碑の前で写真を撮影し、当時の監督や先輩たちに勝利を誓い、出陣した。阿部監督は「50年の節目の年に織田元監督に1勝を届けられたことが大きい」。校内のメモリアルホールには甲子園出場時のトロフィーや写真が飾られており、古岡は「僕らも、あの先輩たちに続くことができたら」と強い口調で話した。

冬場に室内練習用のビニールハウスが壊れるなど困難を乗り越えて臨む夏。チームの力を集結し、7年ぶりの北大会へあと1勝に迫った。3日の代表決定戦の相手は昨秋1-12、今春0-12で大敗した旭川実。古岡は「雰囲気にのまれないように。(プロ注目のエース)田中(楓基、3年)君から安打を打ちたい」。取り組んできた成果を、披露する。【永野高輔】

◆留萌の71年夏VTR 旭川地区予選で旭川北、旭川南、旭川大高を撃破して、初めて進出した北北海道大会でも帯広柏葉、稚内、釧路第一を下し、決勝では同地区の旭川龍谷を3-2で退け、甲子園初出場を決めた。甲子園1回戦では県岐阜商に0-1で惜敗した。