夏の甲子園大会で2度の優勝と高校野球を代表する指導者として、多くの監督に影響を与えてきた日大三の小倉全由監督(65)が9日、定年に伴い3月末での監督退任を選手に伝えた。選手、マネジャー70人の前で「3月で監督をあがる」と、単刀直入に結論を言った。

全国制覇2度の名門は、三木有造部長(48)へバトンを託す。

   ◇   ◇   ◇

誰よりも先に、正直な胸の内は生徒に伝えたかった。「まだどこにも言ってない。3学年の中で最初に伝えたかった」。スーツ姿の小倉監督は落ち着いた雰囲気の中、切り出した。「3月で監督をあがる」。短い言葉に決意を込めた。

関東第一で12年、日大三で26年、計38年間の高校野球監督人生。グラウンドで選手を鍛える一方、寮に住み込み、生徒の日常と向き合った。「1度やると決めたら、誰が見ていても見ていなくても、やり抜く人間になれ」。懸命に取り組むことの尊さを伝え続けた。

ここ数年は、両ヒザと肘が思うように動かなくなった。「やっぱり自分は、この手で全力でノックをしてこそだと思うんです」。三木部長にノックを任せつつ、65歳の定年を機にユニホームを脱ぐ。26年間共にやってきた三木部長に後を託すため、昨夏以降は学校側と話し合いを進めてきた。

三木部長は、ミーティングで小倉監督が選手に退任を伝えた瞬間、「ああ、本当に言ってしまった」と、さみしさを募らせつつ「充実した26年間でした」と続け、思い出を聞かれると「全部です」と即答した。

小倉監督は今後を聞かれ「どうしますかね。何もないです。もう監督は、やったって感じなんです。他でやろうと思わないです」と敏子夫人と千葉の自宅で過ごす日々に思いをはせた。

主将二宮は「3年間見ていただきたかったです。夏に甲子園を決めて喜んでもらいたいです」と言った。フェア精神を前面に、打ち勝つ野球を掲げた日大三は、小倉監督というカリスマから、三木部長にバトンは託された。

◆小倉全由(おぐら・まさよし) 1957年(昭32)4月10日、千葉県生まれ。日大三野球部では3年夏は背番号「13」の控え選手。5回戦で敗れ甲子園とは無縁だった。81年12月に関東第一の監督に就任。85年夏に帝京を破り同校初の甲子園出場。87年センバツでは立浪擁するPL学園に決勝で敗れ準優勝。97年母校の監督に就任。99年センバツで日大三の監督としては初の甲子園出場。01年夏は甲子園歴代最高記録(当時)となるチーム打率4割2分7厘で初優勝。11年夏も2度目の全国制覇を遂げた。主な教え子は坂倉将吾(広島)、山崎福也(オリックス)、近藤一樹(元ヤクルト)ら。社会科(倫理)教員。家族は妻と2女、孫が1人。