神村学園(鹿児島)の最速146キロ左腕・黒木陽琉投手(3年)がチームを初の8強に導いた。5回1死から2番手で救援登板し、4回2/3をノーヒット投球。1年時に左肘の靱帯(じんたい)、神経の損傷で入院。選手生命の危機にも立たされたが、約3カ月のリハビリを乗り越えて復活した。最後の夏に女手一つで育ててくれた母へ、恩返しを誓った。

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最後の打者を遊飛に打ち取り、黒木は左のこぶしを突き上げた。4回2/3を投げノーヒット投球。ナイター点灯された甲子園で、誇らしげに勝利の校歌を歌った。「神村学園史上初の8強。3回戦の壁をやっと乗り越えることができた。うれしさでガッツポーズが出ました」。今大会、初戦から3戦連続でのリリーフ登板。計13回を1失点と抜群の安定感だ。

相手の反撃を食い止める快投だった。2ランで3点差に迫られた直後の5回1死からマウンドに向かった。「自分は頭(先発)はないと思っている。いつでも、いける準備はできている」。この回を右飛、投ゴロと4球であっさり料理。6回から回またぎで4者連続三振と威力のある直球に、スライダー、カーブを低めに集めた。魂の71球で相手を寄せつけず。小田大介監督(40)も「頼もしい。想像以上の投球」と手放しでたたえた。

困難を乗り越えた。2年前。「高校野球は、もう、できないかもしれません」。医者からそう宣告された。1年時に、左肘の靱帯(じんたい)と神経の損傷で入院。選手生命の危機にも、心は折れなかった。「努力次第ではまた野球はできる」。その一心で、約3カ月の過酷なリハビリに励んだ。

だが、簡単にはいかない。完治したはずなのに、新チームとなった2年秋でも、ベンチ入りは遠かった。そんな時、小田監督の教えで「継続することが力に変わる」の言葉を胸に刻み、メンバー落ちした翌日から約1カ月、早朝3時から約40分のランニングを自らに課した。グラウンドのポール間をひたすら走った。

スタンドには女手一つで育ててくれた母咲子さんが見守る。黒木は「ここまで来られたのも親のおかげ。結果で親に恩返しがしたい」と誓った。不屈の闘志ではい上がったサウスポーの夏は、まだまだこれからだ。【佐藤究】

◆黒木陽琉(くろぎ・はる) 2006年(平18)3月8日生まれ、宮崎県延岡市出身。小学1年から南方少年野球クラブで野球を始め、西階中学時は延岡ボーイズに所属。神村学園では2年春から背番号18でベンチ入り。3年春から背番号10。183センチ、78キロ。左投げ右打ち。