星野仙一氏は多くの財産を残した。有形無形のそれぞれを「星野のDNA」と題し連載する。第1回は、中日、楽天で2軍監督やコーチとして仕えた参謀・楽天スカウト部副部長の仁村徹氏(56)に受け継がれたもの。

 楽天のベンチ裏に怒声が響いた。声の主は、マギー。13年8月のある試合。「あんなことで! 銀次は、いつも頑張ってるじゃないか」。発端は、仁村チーフコーチが凡ミスした銀次を怒鳴りつけたこと。一本気なマギーには理解できなかった。険悪な雰囲気の中、星野監督が口を開いた。「いいんだ。仁村は銀次が2軍の頃から目をかけている。銀次も分かっている」。下地に愛情があることにマギーも納得し、場は収まった。約1カ月後に初優勝。銀次も、マギーも、欠かせない戦力だった。

 仁村氏は、星野氏を「厳しさの中に愛情があった」と懐かしむ。銀次への指導は、星野流そのものだった。身をもって味わった。プロ4年目の87年、星野氏が中日監督に就任。レギュラーに起用された。当時は血気あふれる青年監督。「よくしかられた。怖かった。だけど、監督も必死。監督とは、そういうもの」と理解した。教わったのは、基本の大切さ。何より勝負への執念。「常に勝つために前向き。甘い野球はするなと。でも、勝つだけじゃダメ」。勝っても内容が悪いと、またしかられた。勝負師の下での経験が、仁村氏の指導理念の柱となっていった。

 「(星野氏は)選手を我慢強く使う。使うと決めたら使い切る。そうしないと、選手は、人は、動かないんだと思った。短気そうに見えて、我慢強い。選手をよく見ていた。視点が違う。状態が悪く、悪い結果が出ると分かっていても、選手を使い切る」

 順風満帆ではなかった。楽天1年目。東日本大震災後に一時、選手と距離が出来た。野球をやっている場合じゃないという選手たち。プロとして野球を続けるべきという監督。仁村氏は「お互いが理解し合う期間だった」と思っている。14年秋の勇退セレモニー。泣かない選手はいなかった。

 仁村氏にとって、星野氏とは? 「人としても、野球人としても、尊敬している。全てを教わった。若い人に伝えていけるように」。銀次は「星野仙一のような男になりたい」と悼んだ。DNAは受け継がれている。【古川真弥】

 ◆巨人マギー(前楽天)のコメント 勝負にこだわる、燃える闘争心と、ユーモアあふれる温かい人間性のどちらをも、私は決して忘れることはありません。私は偉大な、そして野球界で最も優れた監督の1人の下でプレーすることができたことを一生感謝し、忘れません。日本シリーズに勝って監督を胴上げできたことは、私の誇りです。