ジョンソン、謎の登録抹消-。プロ野球は15年目を迎えた交流戦に突入した。4差の2位。昨年と同じ戦績で交流戦に入った阪神に衝撃が走った。ドリスとの逃げ切りパターンを確立したはずのジョンソンが、リフレッシュという不可解な理由での登録抹消となった。

85年を支えた中継ぎはいつでも投げられ、使い減りしないタフガイ・福間。当時を知る「猛虎知新」の筆者・井坂善行氏はジョンソンについて「早期戦列復帰が、今季の最大のポイントになる」と断言する。

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スポーツ各紙のスミからスミまで目を通したが、どこにも「リフレッシュ」としか書かれていなかった。つまずいた開幕戦線、立て直して迎えた交流戦。ここまでの立役者ジョンソンが、理由にならない理由で1軍登録を抹消されたのは7日のこと。休養を必要とするポジションは理解できるが、登録抹消とはただごとではないのだろう。6、7回以降の逃げ切りがジョンソンを欠いたままでは、他の投手陣への負担も含め、その影響は計り知れない。

さて、34年前である。山本、中西の左右のダブルストッパーへのつなぎ役には、81年のシーズン中にロッテから移籍した福間が充てられた。優れた身体能力に、持って生まれた器用さ。さらには、10球も投げれば肩は出来上がり、連投にも耐えるスタミナ自慢。理想的な中継ぎ投手だった。

そんな福間にも試練があった。いや、福間だけの試練ではなかった。監督に復帰した吉田にとっても、大きな賭けを必要とした起用は5月に訪れた。首位阪神と2位巨人の後楽園での3連戦。初戦を勝った阪神だが、2戦目は同点の延長10回裏、福間が原にサヨナラホームランを打たれた。

翌20日に行われた3戦目。乱打戦の試合は阪神1点リードで7回。この回から登板した福間は、2死2塁で原を打席に迎える。ベンチから吉田が出た。誰もが、投手交代と信じて疑わない場面である。しかし吉田は「ここで抑えんと飯食えんぞ」と言い残し、ベンチに戻った。福間は「リベンジのチャンスに燃えた」。結果はフルカウントから左飛に仕留めたのである。

前日にサヨナラホームランを打たれた打者、しかも左の福間に右の原、さらには一塁が空いているのに、福間は、いや吉田阪神は原と勝負し、あだを取った。

数学の方程式は崩れないが、野球における勝利の方程式は生き物のように動く。その動きを不動にした福間。果たして、ジョンソンは-。

◆85年の福間 中継ぎのエースとして、中西63試合、鹿取(巨人)60試合に次ぐリーグ3位の58試合に登板。工藤や佐藤秀とともにブルペンを支えた。西武との日本シリーズでも3試合に登板。第4戦の9回に西岡に決勝2ランを浴びたが、翌日の第5戦4回1死満塁ではその西岡を遊ゴロ併殺打に取るなど好投し、勝利投手に。シーズン同様、汚名返上のチャンスを鮮やかに生かした。福間はロッテから81年途中トレードで阪神に移籍し、83年には最優秀防御率のタイトルを獲得(2・62)するなど活躍。85年はその集大成となるシーズンだった。

◆井坂善行(いさか・よしゆき)1955年(昭30)2月22日生まれ。PL学園(硬式野球部)、追手門学院大を経て、77年日刊スポーツ新聞社入社。阪急、阪神、近鉄、パ・リーグキャップ、遊軍を経て、プロ野球デスク。「近鉄監督に仰木彬氏就任」などスクープ多数。92年大阪・和泉市議選出馬のため退社。市議在任中は市議会議長、近畿市議会議長会会長などを歴任し、05年和泉市長に初当選。1期4年務めた。現在は不動産、経営コンサルタント業。PL学園硬式野球部OB会幹事。

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○…同じ会社に勤めながら、同じ部署で働きながら、シーズン中はほとんど顔を会わすことがない。交流戦のなかった時代、プロ野球担当記者であっても、セとパではオールスターゲームで一緒に仕事をする程度で、記者同士も交流は少なかった。

その分、トラ番時代は巨人、ヤクルト、横浜(現DeNA)など、東京本社のセ・リーグ担当記者とはよく遊んだ。とくに、後に代表取締役社長にまで就任した巨人番の三浦基裕氏とは妙にウマが合い、遠征先での『交流』は出張の楽しみの1つだった。

実は三浦氏、3年前に出身地の新潟県佐渡市に戻り、市長選に出馬して当選した。ニッカン出身の『先輩市長』として、就任から数カ月後、妻との旅行を兼ねて佐渡市を訪れたことがある。

地元の隠れた名店にご招待いただき、ニッカン時代の思い出話に花を咲かせ、公職である市長の重責、重圧など、記者時代のように遅くまで話し込んだ。そう言えば、来年はもう改選を迎える。一体、どうするのだろう。近々、近況を尋ねてみることにしよう。