日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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プロ野球が無観客試合で開幕に踏み切った。阪神一筋、85年日本一監督の吉田義男は「お客さん、恋しですな」とつぶやいた。戦後の悲哀を知るだけに、ファン離れを危惧している。

「人が人を育てるというが、プロ野球選手もファンに見ていただくことで成長するんです。新型コロナウイルス感染拡大の危機的状況で、子供たちがあこがれるようなスター誕生を熱望します」

そういって吉田が語り出したのが、大の虎党で知られる三井住友銀行元頭取の奥正之(三井住友フィナンシャルグループ名誉顧問)との出会いだった。

奥は戦禍にあった1944年12月2日、長野県上田市で生まれる。少年時代に必死に手に入れたチケットで初観戦したのが、巨人対洋松ロビンスだった。

「打撃の神様」といわれた川上哲治の劇的なサヨナラ本塁打に魅了されてとりこになった。しかし、父正巳の関係で家族が京都に移り住んだことが、宗旨変えの契機につながっていく。

京都市立紫明小学6年生になって初めて、甲子園球場を訪れた。その視線の先にカクテル光線に輝いて映ったのが、11歳年上で小兵吉田の姿だった。

吉田の実家は京都市内で薪炭商を営んだ。山城高1年のとき、父正三郎、母ユキノが相次いで病死し、2つ年上で高校生の兄正雄が店主になって食いつないでいく。

家庭が苦しくてもプロ入りを勧めてくれた父代わりの兄のもとで、吉田はシーズンオフも炭俵、まきの束をリヤカーに積み、お客さんのもとに運んで働いた。

奥にとって家業を手伝いながらプロとしてもスポットを浴びる吉田はあこがれの存在になった。見ず知らずの自宅に直接電話をかけたほどだった。

吉田は「わたしは記憶にないのですが、奥さんから『頑張ってください』といわれ、電話口で『ありがとう』と答えたようです」という。

“牛若丸”と称された名遊撃手と日本を代表するバンカー。時を経て2人がつながったのは、奥が頭取を経てグループトップの座に就いた後のことだ。

奥にとって吉田は少年時代から永遠のヒーローのままだ。プロ野球が少年少女の夢をつむぎ、「ファンあっての」をうたうなら、その真価が問われるシーズンになる。(敬称略)