82年の時をへて-。巨人菅野の開幕投手からの11連勝で、プロ野球黎明(れいめい)期の巨人を支えた偉大なエースの記録にスポットライトが当たった。ビクトル・スタルヒン。日本球界初の外国生まれの選手で、最優秀選手2度、最多勝利6度。日本初の通算300勝を成し遂げ、野球殿堂入りを果たした大投手だ。長女ナターシャ・スタルヒンさん(68)は、菅野がプレーで人々に「夢と希望」を与えることを期待した。

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ナターシャさんはスタルヒン氏が開幕投手からの11連勝を成し遂げた38年から、13年後の51年に東京で生まれた。それほど前の記録が、これまで破られなかったことに驚きつつ、父の球団記録に並んだ菅野への感謝を口にした。

「亡くなってこれだけ長い年月がたった今なお、父スタルヒンの名が出てくるのは、娘としてとてもうれしいことであります。私は野球を見ないですし、記録のこともわかりませんが、父の記録が82年間も破られていなかったというのは驚きです。菅野投手が父の記録と並び、破ることで、ますますプロ野球を盛り上げ、多くの人々に夢と希望を与えつづけてくれることを心から願っています」

82年の時をへて脚光を浴びるスタルヒン氏は日本初の通算300勝を挙げ、野球殿堂入りを果たした大投手だった。1916年、将校の子どもとしてロシアで生まれ、翌年に起こった革命とそれに引き続いて起こったソビエト社会主義政権に追われ日本へ亡命。北海道・旭川へ渡り、国籍を持たない「白系ロシア人」となった。34年にベーブ・ルースらが全米オールスターチームとして来日した際に編成された全日本軍に旭川中から参加。その後、結成された大日本東京野球〓(人ベンに貝の目が組のツクリ)楽部(巨人の前身)に入団することとなった。

プロ3年目の38年に計33勝を挙げると、1シーズン制(96試合制)となった39年には68試合に登板し42勝(38完投)を記録。今でも稲尾和久と並びシーズン最多勝利のプロ野球記録だ。翌40年にも38勝を挙げ、2年連続の最多勝&MVPを獲得した。

偉大な父に導かれナターシャさんは08年7月15日、旭川(スタルヒン球場)で行われた巨人-中日戦で始球式を務めた。父は日本が日中戦争から、太平洋戦争に突入していく中、英語が敵性語とみなされ、登録名を「スタルヒン」の音に近い「須田博」に替えプレーした時期もあった。1955年の引退までに586試合に登板。303勝176敗、防御率2・09の成績を残した。不慮の事故で57年に40歳の若さでこの世を去るまで、日本野球界を支えた大エースだった。【久永壮真】