阪神藤川球児投手(40)の足跡を振り返る「球児伝」の第4回は同い年の久保康友投手(40)です。先発として活躍し、09年から4年間、阪神で守護神球児と共闘。大阪・関大一高時代に対戦し、同僚として触れた投手としての「実像」を語った。久保はDeNAを退団後、18年から海外でプレーしてきた。「投げる哲学者」の異名を取るNPB通算97勝の右腕も驚嘆した、生き方があった。【取材・構成=酒井俊作】

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忘れもしない、アイツに言われてグサッと刺さった言葉があるんです。僕は09年から阪神で球児と同僚になりました。遠征先のホテルで食事をしていて、ボソッと言われた。「お前のあと、投げるの嫌やねん。お前が全部やるから、打者に見られてしまって、俺、対戦しづらい。お前がやりすぎるから、やることないねん」。覚えているかな、アイツ…。衝撃でしたね。

僕は先発として打者を前後左右で揺さぶったり、間合いを変えたり、いろんな攻め方をしてきた。高速クイックもそう。そうしないと抑えられない。でも全盛期の球児は違う。真っ向勝負で抑えられるんやから、そんな小技を使わなくてもいいやんって思った。剛速球だけでねじ伏せているイメージですが、分からないように、打者と駆け引きしているのに気づきました。

投手に一番大事なのは真っすぐです。みんな、その真っすぐに伸び悩んだり、打たれ出して変化球を覚えていく。直球という幹だけで足りないから枝分かれした先を目指していく。球児はあの真っすぐを持っている。揺るぎない本筋、幹があって、現状、困ってもいなかったのに、そこに気づいたことがスゴイ。小枝にまでアンテナを立てている感性には本当に驚きました。

球児のことは高校2年の時から一方的に知っていました。高知商に行って練習試合をした。そこにいたのが球児でした。投球を指導してくれていた方に「これが1位の投手や。お前がてんぐにならんように本物を見せた」と言われました。実際に見てスゴイなと。投げる球、フォームがめちゃめちゃキレイ。高校でそれを見て、プロに入って見たフォーム、同僚として見たフォーム…。幹の部分は、ほとんど変わっていない。

僕はタイプを変えて、人とかぶらないようにして勝ち取ってきた。ロッテに入った05年、同じ右上投げの清水直行さんがエースでいた。「これはタイプがかぶるな」と思って、ちょっと肘を下げたりした。球児は自分を変えずに我慢して、最後まで、これが一番正しいと信じてやり続けたスゴイヤツ。その認識が昔からある。プロでは下積みが長かった。でも、目の前に勝てる方法があるのに飛びつかない。球種を増やせるのに、持っているのに使わない。いつでも目の前の数字を残そうと思ったらできたはず。結局、最後に残るのは本筋、幹だと分かっていたから、大切な部分は変えなかったのだと思います。

自分がいい真っすぐを投げれば投げるほど、僕がしんどいと思ったのは、打者が慣れてこないことです。永遠にファウルになる。最高の球を最初から前に飛ばす気がない打者もいる。ファウルでカットしてね。3球も4球もファウルにされたら、僕は気持ちが持たない。それなら安打の方がええわって思ってしまう。球児は、それでも空振りを取ろうとする。どんなにいい球を投げてファウルされ続けても、投げ続けようとする強さがアイツにはある。前に飛ばされれば何かが起こる。抑えとして三振を取る方が失点のリスクも少ないから、その姿を目指したのかもしれませんね。

守護神はすべてを背負った上で重圧がかかっても乗り越える。そんな過酷なポジションです。「やって当たり前」というのもついて回る。球児はそれを全部、正面から受け止めて、全部、実績で証明してきた。アイツが言っていたことがあります。「先発はできひん。難しい。先発で70点より、100か0か。やるか、やられるかで最高の球を放っている方がいい。全力で行って抑える方が簡単」って。人間らしくてええなと思いました。最初から、最後のやめるときまで自分のスタイルを貫き通したのは選手として尊敬します。それでいてアイツは、そういう僕の得意なジャンルにまで入ってくる。本当に欲張りなピッチャーやなと思います。

◆久保康友(くぼ・やすとも)1980年(昭55)8月6日、奈良・橿原市生まれ。関大一3年時の98年センバツ決勝で横浜・松坂(現西武)と投げ合い準優勝。同年夏は甲子園8強。松下電器をへて04年ドラフト自由枠でロッテ入団。05年は新人王。09年、阪神加入。13年オフ、DeNAにFA移籍した。NPB通算97勝86敗6セーブ、防御率3・70。18年は米独立リーグでプレー。19年はメキシカンリーグのレオンに在籍して8勝14敗、154奪三振は奪三振王。今季は新型コロナウイルスの感染拡大でプレー断念。来季も海外でのプレーを模索する。180センチ、79キロ。右投げ右打ち。