個性的な投球フォームで、中継ぎ投手として阪神のブルペンを支えたのが池内豊氏(68)だ。大型トレードで1976年(昭51)に阪神入りし、82年には73試合登板で当時のセ・リーグ記録と並んだ。84年オフ、長崎啓二(本名・慶一)外野手とのトレードで大洋(現DeNA)へ移籍。交換相手の長崎が日本シリーズで満塁本塁打を放ち、阪神が日本一を決めたその日。池内氏は古巣の栄光とは対極の場所で、懸命に戦っていた。【取材・構成=高野勲】

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カクカクッと音が聞こえてきそうな、他に類を見ないフォーム。スリークオーターからの独自の投法で長らく活躍した池内は、南海(現ソフトバンク)から70年ドラフト指名され入団した。当時は上から投げ下ろす、正統派右腕だった。

新人年の71年に1軍デビューした。プロ4年目から2年間は1軍登板はなかったが「他球団に行けばチャンスはある」と信じ、腐ることはなかった。キャンプインを控えた76年1月末。大型トレードの一員として江本孟紀らとともに阪神行きを言い渡され、喜び勇んでタテジマに袖を通した。

池内 南海でチームメートだった、左打ちの新井宏昌(後に通算2038安打)から「お前のボールはとても見やすい」と指摘されていたんです。新天地で試行錯誤を始めました。

移籍1年目の76年には21試合登板と結果を残した。オフに下手投げを試したり、サイドで投げたこともある。田淵幸一の控え、片岡新之介捕手が付きっ切りでフォーム改造に助言をくれた。

池内 右腕を体に巻き付けるよう意識すると、リリースポイントが右打者の正面あたりで固まってきました。右バッターには、球が自分に向かってくるように見えるのに、外角にスライダーが決まる。そんな投球になりました。

新フォームの成果で、救援投手としての立場を固めてゆく。78年にはプロ唯一の完投勝利も飾り、自己最高の9勝。79、80年にはチーム最多セーブ。そして82年に記録した73試合登板は、当時のセ・リーグ年間最多登板タイ記録だった。

池内 当時の安藤(統男)監督から「何か記録に残ることもやってもらいたい」と積極的に使ってもらいました。ところが翌年から、少しずつイメージ通りの投球ができなくなりました。詰まらせるはずの球がバットの芯で捉えられる。凡打のはずが内野を抜けてゆく。環境を変えて、また自分自身と勝負したいな、と思っていました。

84年オフに、長崎との交換トレードで大洋へ移籍した。82年に首位打者を獲得した、実績ある選手と同等の評価もうれしかった。しかし衰えは隠せず、1年で戦力外に。阪急(現オリックス)に移籍していた片岡に、急いで電話し、入団テスト受験を頼み込んだ。

各球団が独自に戦力外選手をテストしていた時代である。知人宅に転がり込み、兵庫・西宮市の阪急第2球場へ向かった。秋季練習に合流したのは、85年11月2日。古巣阪神は、西武との日本シリーズ第6戦を戦っていた。交換相手の長崎が逆風を突いて満塁本塁打を放ち、阪神は日本一に。前年までの仲間たちが歓喜に浸り、列島が昭和史に残る熱狂に包まれる中、池内はファンなど1人もいない練習場で黙々と投げていた。約50球。なまった体からのボールの走りは悪かった。

池内 公式戦が終わって解雇通告を受けた10月30日まで、動いていませんでした。上田(利治)監督からは「もっと練習してから来なさい」と準備不足を見破られました。でも「今日決めてください」と頼み込んだんです。熱意が通じたんだろうと思います。

入団を勝ち取ったものの、翌86年は5試合の登板に終わり引退。打撃投手へと転身した。

池内という代償を払い、阪神は日本一の立役者となる好打者を手に入れたのだ。平成を経て令和となった現在も、この年の快進撃は語り継がれている。かつての名中継ぎは、古巣の栄光をどう見ているのだろう。

池内 あと1年いたら日本一メンバーだったかもしれませんが、悔いなど感じたことはありません。上田さんや仰木彬さん(オリックス監督)など、さまざまな出会いに感謝しています。長崎さんはとりわけ低めの球を打つのがうまく、内角が得意なのを分かっていてもその近辺に投げ込んでしまうような、本当に嫌な打者でした。そんな方との交換ですから、今も誇りに思っていますよ。

なお、池内の長崎との通算対戦成績は、32打数8安打、2本塁打、7打点、被打率2割5分だった。85年6月22日には、唯一の「大洋池内VS阪神長崎」が横浜で実現。6回無死二塁から、なんとも珍しい投飛に打ち取っている。(敬称略)

○…入れ替わりで阪神へ移籍した長崎は、長らく池内に申し訳ない気持ちでいたという。80年代初めに、大洋の球団首脳に「他球団でやってみたい」とトレードを志願していた。ところが当時の関根潤三監督(故人)から「私がいる間は絶対に出せない」と慰留され、いったん希望を取り下げた経緯があった。84年限りで関根監督が退任したため、改めてフロントに移籍を申し入れた。「他球団の選手に迷惑をかけたくなかったので『金銭トレードでお願いします』と念押ししていたんです。池内さんと交換と聞き、話が違うと思っていました」。

阪神入りした長崎は、史上最強助っ人バースの急成長にも貢献した。絶えず視線を感じ、タイミングの取り方を参考にされた。「彼はメジャーでは速球に対応できなかったため、なんとか日本で成功したいという思いが強かったようです」。バースは通常34・5インチ(約87・6センチ)のバットを使用。ところが速球派の投手が出てくると、33・5インチの長崎のバット(約85・1センチ)を黙って使い、快打を飛ばしていたという。池内トレードによる、思わぬ副産物である。

◆85年11月2日の日本シリーズ第6戦 阪神が西武を相手に、3勝2敗と王手をかけて臨んだ。阪神は1回表、西武先発の高橋直樹を攻め、バースの四球と掛布雅之、岡田彰布の連打で2死満塁の先制機をつかむ。ここで6番の長崎が、逆風を突いて右翼席へ本塁打をたたき込んだ。優位に立った阪神は、真弓明信や掛布の本塁打などで効果的に加点。投げてはゲイルが完投し9-3で勝利を収め、阪神が初の日本一を飾った。この日の満塁弾を含め2本塁打の長崎は、シリーズの優秀選手賞に輝いた。

◆池内豊(いけうち・ゆたか)1952年(昭27)4月7日生まれ、香川県出身。志度商(現志度)から70年ドラフト4位で南海(現ソフトバンク)入団。引退後はオリックスの打撃投手を経て、2軍投手コーチとして平井正史らの成長に貢献。中日2軍投手コーチや球団スタッフ、韓国プロ野球KIAのコーチ、関西独立リーグ兵庫(現神戸三田)の監督などを歴任。現在は、22年に関西を中心に行われる世界最大級の生涯スポーツ競技大会「ワールドマスターズゲームズ」に出場する「チームYUTAKA」監督として、準備に奔走中。現役時代は177センチ、81キロ。右投げ右打ち。