日刊スポーツの好評大型連載「監督」の第3弾は、阪急ブレーブスを率いてリーグ優勝5回、日本一3回の華々しい実績を残した上田利治氏編です。オリックスと日本ハムで指揮を執り、監督通算勝利数は歴代7位の1322。現役実働わずか3年、無名で引退した選手が“知将”に上り詰め、阪急の第2次黄金期を築いた監督像に迫ります。

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徳島・海南高(現海部高)の卒業を前に、上田利治は、関大監督の川村義之から推薦入学の打診を受けた。しかし、海南監督の市川隆夫は「上田は学力優秀ですから」と申し入れを断った。

1955年(昭30)、上田は3番以内の成績で関大に合格。高校のチームメートだった中島計吾ら2人も同大学に進んだ。法学部生として文武両道を貫くことになる。

大阪に出てきた上田が出会った同い年の選手が、後に阪神入りするミスタータイガースこと村山実だ。村山と無二の親友で、関大で左腕投手だった前川洋も上田とバッテリーを組んだ。

「市川先生(監督)は上田は秀才だとおっしゃっていました。上田は真面目で、勉強家で、我々とマージャンするときも横にドイツ語の本を置いてましたからね。勝負事が強くて、下宿代もマージャンで稼いだんじゃないですかね。それと、いらち(関西で気が短いの意味)でしたな」

56年、全日本選手権(神宮)で村山-上田の2回生バッテリーだった関大は関西勢初の日本一に輝いた。翌57年の同準決勝は、プロから注目を浴びる杉浦忠が投げ、長嶋茂雄が三塁を守る立大との対戦だった。

先発は村山が右肩の不調で前川に回ってきた。「上田は『なに投げても打たれるんやから、サインなしで放ってこい』と言いながら巧みにリードした。3-5で負けたけど肩が強い捕手でしたね」。

入学時に80人だった同学年のチームメートは、4回生になったときは26人。上田が主将、副主将は村山、前川。「考え方が緻密で、下級生をうまく引っ張ったと思います」。村山は阪神入り、弁護士との選択で迷った上田は広島に入団した。

当時は親会社からの出向という形は珍しくなかった。東洋工業から出向社員で広島入りした上田は短命だった。3年目で右肩を壊し、4年目のコーチ兼任を経て現役引退。オーナーの松田恒次に見込まれたことから、コーチ業に専念した。

前川は69年オフ、阪神監督に就任した村山が、広島コーチだった上田を打撃コーチに招請した背景を知っている人物だ。

「ムラ(村山)は上田に3度とも断られました。『ムラ、そんなもん初めからドンっと、一番高いもん出さんかい!』といったら泣きだしたんです」

どのタイミングかは不明だが、村山からの誘いを肉親から諭された上田は翻意している。だが、コーチ人事を巡って阪神球団と村山の間でこじれていた。“阪神上田”は幻になった。

「上田は鶴岡さんの息もかかっています」。南海ホークスを率いて11度リーグ優勝した鶴岡一人が広島出身だったことで、上田は覚えのめでたい存在だった。まだ指導者としての評価が定まらなかった時期に、名将から受けた影響は大きかった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆上田利治(うえだ・としはる)1937年(昭12)1月18日生まれ、徳島県出身。海南から関大を経て、59年広島入団。現役時代は捕手。3年間で122試合に出場し257打数56安打、2本塁打、17打点、打率2割1分8厘。62年の兼任コーチを経て、63年に26歳でコーチ専任。71年阪急コーチに転じ、74年監督昇格。78年オフに退任したが、81年に再就任。球団がオリックスに譲渡された後の90年まで務めた。リーグ優勝5回、日本一3回。95~99年は日本ハム監督を務めた。03年野球殿堂入り。17年7月1日、80歳で死去した。

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