1通のメールが、親子が過ごしてきた時間すべての答えだった。高校時代は横浜高のエースとして甲子園でも活躍、プロでは昨年まで5年連続で2ケタ勝利を挙げて09年には沢村賞を獲得。西武涌井秀章投手(25)を育てた母たつ子さん(51)は「願った通りに育ってくれた」と振り返る。それでも“頑固息子”が球界を代表する投手になるまでには、たつ子さんと父孝さん(51)による献身的なサポートがあった。

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いつも遠いとこ応援に来てくれてありがとう 今日は負けてしまったけど 野球やってて本当に良かった これからも応援してください。」

息子から母への最初で、そして最後になる“長文”かもしれない。04年夏の甲子園準々決勝で敗れた後に届いたメール。高校入学後、練習試合など週末はほとんど実家のある千葉から横浜へ応援に通った母は、涙が止まらなかったという。

「神奈川大会から大変な試合ばかりで、後で聞いたら(負けた試合の)前の日まで腕が上がらなくて、それでもマウンドに上がったらしくて。取りあえずはやり遂げた気持ちになったのかもしれません。長いメールなんて来たことないですから。それまでほとんど話し合うこともなく、半分私たちの強制でやらせてしまって、申し訳ないという思いはあったんです。野球が好きなのかも分からなかったですし。でも、その時本当に初めて、やらせてきて良かったと思いました」

両親、祖母、2歳上の姉という環境に生まれた息子は、よく泣く子だった。保育園に行く時は毎朝、必ず泣く。部屋で遊ぶことが好きで、自分から何かをするタイプではなかった。

「通信表や家庭訪問で学校の先生から言われるのは『争い事が嫌い』『もうちょっと積極的になってくれれば』。3歳か4歳くらいの時に、スイミングへ通わせましたけど、1年間顔つけができなくて。顔がつけられるようになると、あっという間に泳げるようになったんですけどね。『石橋をたたいても渡らない』みたいな子でした」

そんな息子が93年の春、ソフトボールチームに誘われ、ユニホームを着て帰ってきた。「ママ、僕はソフトのチームに入ったよ」。誇らしげな姿と初めてかもしれない自ら示した意思。それが両親にはうれしくて仕方がなかった。まず、父が朝の練習に付き合うようになった。小学校、中学校と9年間続くことになる、マンツーマン練習の始まりでもあった。

「人前に出たがる人ではないんですけど、息子が出るならと練習に出るようになって。本人は朝練というか、とにかく朝起きるのが嫌だったみたいです。主人に怒られるから渋々。それでも、毎日続いたんですよね。主人はノックもわざと捕れないところに打って、絶対自分でボールを取りにいかせたりしました」

技術を教えるのが父なら、母は態度だった。

「主人はずっとキャッチボールの相手とかもして、私は生活態度。あの子が小学2年生くらいの時ですかね。6年生の子がお母さんに『あいつがエラーしたから負けたんだ』って言ってるのを聞いて、これは息子には言ってほしくないなと思って、そういうのは言っちゃダメだよとは言いました。あの子は言われる前からそんなことは言わなかったですけどね。その時から淡々と愚痴をこぼさず、ポーカーフェースでした」

中学進学が近づき、強い高校で野球を続けさせたかった両親は硬式球に慣れさせようと、シニアリーグのチームへ入団を勧めた。しかし、これが難航した。

「あの子は中学(の軟式)野球をやりたかったみたいで。入部届みたいなものにずっと名前を書かないでいて、娘が『本当に嫌なら、嫌だって言えばいいんだよ』って言ったら『じゃあやだ』って。でもこっちは『そう、やなの。でもダメ。書いて』と(笑い)。それが練習に行くとみんなと楽しそうにやってる。結局、別に嫌じゃないんです。本当に嫌だったらもっと違う態度を取る。やるまでの行動が嫌で、やってしまえば全然というちょっと変わった、本当に面倒くさがりなんです。最初の出足、その1歩が難しい。半強制的であとは我慢比べ。あの子の場合、それが合っていたと思います」

シニアで頭角を現し、周囲の強い勧めで横浜高へ進学。母には「3年間、仮にレギュラーになれなくても、得るものはある」という確信があった。そんな思いとは裏腹に息子は順調に階段を上っていったが、2年秋に試練が訪れる。神奈川大会3回戦で延長11回、7-8でサヨナラ負け。試合中から泣き始めていた息子は、とても声をかけられる状態ではなかったという。

「ある日家に帰ってきた時、大きなため息をついたんです。おばあちゃんが『もう嫌になっちゃったかい?』と聞いたら『別にそうでもないけど…』って。でも、見るからに落ち込んでました。『頑張れ』と言ってしまいそうになるんですけど、主人に『ヒデは頑張ってるんだから、これ以上何を求めるんだ』と言われて考えさせられました。頑張れと言うよりも息抜きのできる場所がないといけない。自分ですべて解消できる部分があるので、本人が言わない限りはそっとしておこうと決めました」

プロ入りは高校の部長らと話し合って決断し、両親にはほぼ事後承諾だった。それでも、自分から足を踏み入れた勝負の世界で息子はどんどん頼もしくなった。成長を実感する出来事があった。07年6月、祖母ミイさん(享年73)が亡くなった。小さい頃は一緒に寝るなど大のおばあちゃん子。プロになってもよく顔を見せに実家へ帰ってきていたほどだった。そんな祖母との別れ際の行動に母もはっとさせられたという。

「こっちから何も言ってないのに、自分のユニホームを持ってきて棺(ひつぎ)に入れたんです。普段はあっけらかんとしているんですけど、そういうのを見ると、きっと胸に秘めているものがいろいろあるんだろうなと思いました」

胸に秘めた強い思い。それがあるから、時として息子は“頑固”にもなる。母はオフに行った年俸調停も同じだったと考えている。

「最初は『お金のことで…』と思いましたけど、本人の問題ですし、それで納得できるなら、と。できなければ次に進めないんです。小さい頃から主人が野球のことでこうするんだと言っても、自分で納得しなければ絶対にやらなくて、主人がイライラしてましたから(笑い)。キャンプ前に『今年は何も言われないように、頑張らなきゃね』と言いましたけど、本人も分かっていたと思います」

その今季は右肘の違和感で登録を抹消されるなど、なかなか調子の上がらないチーム同様、波に乗れない時期が長引いた。

「今も結構苦しんでいるかもしれないですけど、高校の時もかなり悔しい思いをたくさんしてきて、そういうものがあの子の中にはあるので、そう簡単にはへこたれないと思ってます」

息子がくれた1通の感謝ですべてが報われたあの日から、あとは見守るだけと決めている。

◆涌井秀章(わくい・ひであき)1986年(昭61)6月21日、千葉県出身。横浜高では2年春のセンバツ決勝で先発するなど早くから活躍。3年夏は甲子園準々決勝で駒大苫小牧に敗れたが、秋の国体では日本ハム・ダルビッシュのいた東北を破って優勝。04年ドラフト1巡目で西武入団。07年に17勝を挙げて最多勝を獲得、09年には16勝で2度目の最多勝と沢村賞を受賞。08年北京五輪、09年WBCで日本代表入り。家族は建具職人の父に母、姉。185センチ、85キロ。右投げ右打ち。今季推定年俸2億5300万円。