息子は見ていた。3人の子供を必死に育てる母の姿を。今季ハーラートップと好調な巨人内海哲也投手(29)は、母広子さん(51)が何事にも奮闘する姿を見ながら育った。それでも、母は言う。「私は何もしてへん。哲也が頑張っただけ」と。言葉の端々からあふれ出る息子への愛情。家族へ全力で愛を注ぐ内海のルーツは、母にあった。【取材・構成=久保賢吾】

「申し訳ありません」。広子さんは息子とともに、額を地面につけた。今から14年前の秋のことだった。野球推薦で静岡の高校への進学が1度は決まりかけたが、家族会議で白紙に戻すことにした。所属していたボーイズリーグの監督と意見がかみ合わず、母が決意を示したのが、土下座だった。

「もう、それしかなかったんです。格好なんて気にしてられない。哲也のために何とかせな、それだけでした。でも、その帰り道、半べそになって哲也が言うんです。『オレ、高校にも行かれへんのかなぁ』って。おかんが何とかしたる ! そう言ったのを覚えています。必死になって探しましたよ。知人を通じて、敦賀気比高のセレクションに参加して、やっと高校が決まったんです」

3人兄弟を育てるために、広子さんは必死だった。自営の八百屋で朝から晩まで働いた。家族が唯一そろうのは夕食だけだった。限られた時間の中だったが、テーブルの上にはいっぱいの料理を並べた。愛情を精いっぱい込めて。

「今の姿からは想像できないですけど、食の細い子だったんです。野菜も大嫌いで。ちょっとでも体を大きくさせようと、メーンの料理は2つ。中学の時までは無理やり食べさせてました。ご飯の前に牛乳を1本飲ませて。もともと苦手で市販のやつは飲まなかったので、ビン牛乳を宅配してもらってました」

仕事で手が離せないため、1歳から保育園に通わせ、土日はラグビースクールに入れた。小学校に通い始めたある日、面談で息子の衝撃的事実を知らされる。

「『息子さんは左利きですけど、どうしますか』って言われて。その場で顔が真っ赤になって。箸は右手で持ってたから、てっきり右利きやと思ってたんです。小学校の時、同級生に若白髪をからかわれてたことを知ったのも、先生が教えてくれたから。『どうなんや?』って聞いても何も言わんから、大人になって染めたらええねんと。哲也はうなずいてるだけでしたけどね。風邪をひいても、自分でバファリン飲んで、治すような子。反抗期もなかったし、子どもながらに迷惑かけたらあかんって思ってたんやろね」

従順だった息子がたった1度だけ〝反抗〟したことがあった。小学2年になったある日、息子は母に「おかん、野球がやりたいねん」と訴えた。

「仲のいい友達がやってたんです。やるからにはしっかり続けてもらわなと思って、家の近所にあった3チームの練習に連れていったんです。さぁ、どこにするんかなって思ってたら、入ったのは地元で最弱のチーム。それも、哲也らしいなと」

高校入学を機に、息子の野球人生は大きく変わった。センバツ出場を決める高2秋の北信越大会で優勝。高校屈指の左腕として世間に騒がれ始めた。

「自分の息子じゃないみたいで。それでも、哲也が投げてる時は胸が苦しくて苦しくて。ほんま、寿命が縮む思いです。よう、トイレに駆け込んでね。それはプロになっても一緒。哲也が投げてる時は吐き気がして、体調が悪くなるんです。だから、試合を録画して、携帯で結果を知った上で、見てるんです。ここは抑えるな、とか思ってたらドキドキせぇへんでしょ」

運命を左右する出来事だった。00年ドラフト、巨人入団を希望していた内海はオリックスから1位指名を受けた。「入団か、拒否して社会人か」。運命の時、息子の決断を聞いた母は静かにうなずいた。

「親としては3年間は長いなぁと。ケガをしたら終わりやし、正直、プロにいける保証なんてないんやでって思いましたけど、哲也は『社会人からプロに行く』と言うんです。『オレはじいちゃんと同じ巨人でやりたい。じいちゃんが背負った背番号26をつけるんや』って言うて。もう、自分の人生やねんから哲也に任せようと。後悔だけはせんようにね、と最後に言うただけです」

3年後、祖父五十雄さんがかつて所属した、あこがれの巨人にドラフト1位で指名を受けた。入団会見の日、新入団選手が集まる部屋に母と祖母の晴子さんは招待された。背番号「26」の真新しいユニホームを着た息子は、がんで余命わずかだった車いすの祖母にソッと近づき、つぶやいた。

「ばあちゃん見てや。背番号『26』やで」

「もう2人でボロボロ泣いちゃって。じいちゃんのユニホーム姿なんて知らんのに、不思議と重なって見えた。ばあちゃんはユニホームを力いっぱいつかんで。ばあちゃんはほんまに幸せやったと思います。哲也とじいちゃんのユニホームを見られて。哲也の後ろ姿を見ながら、ふと思ったんです。ほんま大きなったなぁと」

昨年の冬、広子さんは、長年の夢だった「居酒屋」を福井・敦賀市に開店した。ホルモン鉄板焼きと広子さん特製おでんが看板メニュー。店内は内海の人柄を示すように、チームメートの野球グッズが彩る。

「哲也が高校の時くらいからかな。飲食店をやるのが(私の)夢って言うてたんです。その時は『金あらへんやん』って却下されましたけど(笑い)。でも、ずっと覚えてくれてたみたいで。ある時、おかん、店やろかって。ほんま、幸せなおかんですよね。私の夢までかなえてもらって」

プロ入りの〝初給料〟で買ってもらったバッグを大事に抱え、広子さんはうれしそうに笑った。

◆内海哲也(うつみ・てつや)1982年(昭57)4月29日、京都府出身。敦賀気比(福井)から東京ガスを経て、03年に自由獲得枠で巨人入団。07年に自己最多の14勝を挙げ、初タイトルの最多奪三振を獲得。09年にはWBC代表入り。家族は夫人と2男。186センチ、90キロ。左投げ左打ち。今季推定年俸は1億2000万円。

◆内海五十雄(うつみ・いそお)1914年(大3)2月19日、京都府生まれ。平安中から法大を経て、38年に巨人に入団した。同期入団した川上哲治、千葉茂らとともに「花の昭和13年組」と呼ばれた。巨人の初代背番号「26」。主に一塁手でプロ2年間で1安打だった。92年に死去した。孫の哲也に直接、野球を教えることはなかったが、野球人生に大きな影響を与えた。