日刊スポーツでは大型連載「監督」の第4弾として、ヤクルト、西武監督として、4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた広岡達朗氏(89)を続載します。1978年(昭53)に万年Bクラスで低迷したヤクルトを初優勝に導いた管理野球の背景には、“氣”の世界に導いた広岡イズムがあった。

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ヤクルトのヘッドコーチだった広岡達朗は、監督の荒川博が途中休養したことから1976年(昭51)6月17日、正式に監督に就いた。最初から監督として臨んだのは翌77年だ。

50年に国鉄スワローズとして発足して以来、チームは61、74年の2度の3位を除けば、すべてBクラスで長期低迷。広岡が弱小チームに持ち込んだのが“氣の世界”だった。

「人を教えるのに『ああしろ、こうしろ』ではダメなんです。『こうしたら、こうなる』という理詰めが必要です。その理論も実践できて、初めてできたといえるのです。それも一瞬のうちにできるかどうか。選手が『わかった』というまでやらせることです」

心身統一合氣道にある「心が身体を動かす」という理論を語るときの広岡は能弁だ。実際に奥義を理解し、身につけ、さらに結果に表すのは至難だったが、広岡はそこにすがった。

巨人で1年目からレギュラーだった広岡が壁にぶつかったときに出会ったのが旧華族でヨガの達人、思想家の中村天風だった。海軍大将の東郷平八郎、山本五十六らも心酔した東京・護国寺の修練会に通って教えを請うた。

また、早大先輩の荒川が武道に取り組んでいたことで、合気道の創始者・植芝盛平も紹介されている。中村、植芝のもとで修行し、「心身統一合氣道」として指導したのが、藤平(とうへい)光一だった。

心身統一の四大原則(一)に、へその下の「臍下(せいか)の一点に心をしずめ統一する」という教えがある。11年に91歳で世を去った藤平光一を継承した息子の信一(47)は「自然な姿勢には自然な安定がある。不自然な姿勢では無意識に体に力が入り不安定になる」と説明する。

「怒ることを頭に来る、緊張することを上がるといいます。上半身に余分な力が入っていると、氣が上がって、うわずった状態になります。臍下の一点に心を静めることで、全身の無駄な力を抜くことができます。うわずっている状態が解消し、落ち着いて盤石な姿勢になり、持っている力を発揮できるのです」

荒川は師弟関係にあった王貞治も藤平のもとに連れていった。それから王はバット1本担いで単身で道場に赴き、藤平に教えを求め、素振りで畳に血がにじむような鍛錬で一本足打法を作り上げるのだった。

藤平の教えは、臍下の一点に心を静めることができれば、一本足でも二本足のようにいつまでも立っていられるという理論だった。

広岡は「王が一本足でスッと立ったときが静の状態です。これが無意識の静止で、不動の姿勢で『さぁ、いらっしゃい』というふうに投球を待つ。これができるかどうかが、一流と超一流の分かれ道なのです」と語った。

キャンプに藤平本人を招き、シーズン中も主力選手を道場に連れて行きながら“氣”を注入し続けた。リーダーの確固たる信念はヤクルト再建への道しるべになった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆広岡達朗(ひろおか・たつろう)1932年(昭7)2月9日生まれ、広島県出身。呉三津田-早大を経て54年に巨人入団。1年目から遊撃の定位置を確保して新人王とベストナインに選ばれる。堅実な守備で一時代を築き、長嶋茂雄との三遊間は球界屈指と呼ばれた。66年に引退。通算1327試合、1081安打、117本塁打、465打点、打率2割4分。右投げ右打ち。現役時代は180センチ、70キロ。その後巨人、広島でコーチを務め、76年シーズン中にヤクルトのコーチから監督へ昇格。78年に初のリーグ優勝、日本一に導く。82年から西武監督を務め、4年間で3度のリーグ優勝、日本一2度。退団後はロッテGMなどを務めた。正力賞を78、82年と2度受賞。92年殿堂入り。

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