ロッテ佐々木朗希投手(19)がプロ初勝利を挙げた。希代の快速球には人々を胸躍らせ、奮い立たせるパワーがある。故郷の岩手・陸前高田市で中華料理店「四海楼」を営む長田正広さん(55)も、163キロに立ち上がった1人。11年3月の東日本大震災で亡くなった朗希の父功太さん(享年37)とは大の仲良しだった。友の忘れ形見の立派な姿に涙し“伝説の担々鍋”の復活へ腕を振るった。

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朗希が身をかがめて店に入ってきた。表情が自然と緩む。「やっぱ、めんこいよなぁ」。昨年末の帰省時に寄ってくれた。琉希、朗希、怜希の佐々木家3兄弟は、長田さんには大事な仲間の忘れ形見だ。感慨深くなりながら、1杯のラーメンを出した。

あの頃が懐かしい。ご近所さん同士。特に夏祭り前後は町内会の一体感が最高潮になる。飲み会で、長田さんはよくオリジナルの担々鍋を差し入れした。絶品ぶりが口コミで広がり、やがて佐々木家の大みそかの定番になった。「鍋を持ってくとさ、夜8時ごろかな、功太が『御礼にこれどうぞ!』ってアワビの刺し身を持ってきてくれて」。除夜の鐘はいつも幸せを引き立てる音だった。

大津波が全てを壊した。「何人も亡くなったよ。功太だけじゃない。一緒に飲み会してたケイタも、マサルも。悔しい。悔しいよ。全部流された」。

四海楼は人気店だった。再開を願う声に押され、震災8カ月後に仮設店舗で再出発。さらに7年後の19年4月3日、盛り土で10メートル以上かさ上げされた新しい町に新店舗を開いた。「だから、朗希はオープンしてすぐ来てくれたんだな」

4月6日に日本代表候補合宿で163キロを出した数日後、母陽子さんが「連れてきたよ」と時の人と一緒にやって来た。佐々木家は震災直後に大船渡に移り住んでいた。久しぶりの再会。「本当にあの功太の息子なんだよな?」と問いかけた。「息子です」。そっくりの顔で笑っていた。

親子を見送り、目を潤ませながら誓った。もう1回、あれを作る-。記憶をたどって試作を繰り返す。仕込みが結構大変で、震災以降の多忙な日々に担々鍋を作ることは1度もなかった。タレだけだとちょっとしつこいから、鶏がらスープと割って、締めはマーボー豆腐とラーメンかな…。

故郷から巣立つ前にどうしても食べてほしかった。19年12月末。三陸から上京する直前のドラフト1位右腕が家族全員でやって来た。「頑張ってこいよ!」と、テーブルに担々鍋を置いた。湯気と熱気に包まれた幸せな時間。佐々木家の年の瀬に、実に9年ぶりに懐かしい味が戻った。

旅立ちから1年。ますます大きくなって戻ってきた朗希に「こんなの作ってみたんだ。店でも出してみようかなと思ってさ」と、担々鍋の締めを再現したラーメンを出した。朗希は辛いものが苦手だ。「でも、担々鍋だけはちょっと違うんですよ。本当においしいんです」と言う。新作も「うまいです!」と夢中ですすった。会うたびに大きくなる。懐かしい仲間の笑顔に、ますます近づいてくる。【金子真仁】