西宮の、そしてブレーブスの最後のタイトルホルダーとなったのが石嶺和彦だ。肝炎に倒れ点滴を打ちながら主砲を務め、若き指名打者として君臨。南海から門田博光が加わると外野に回り、守りの負担をはね返して打点王となった。小柄な体をフル活用しての打撃には、全盛時の落合博満まで教えを請いに来たという。現在は60歳。故郷沖縄で社会人チームの指揮を執っている。(敬称略)

【取材・構成=高野勲】

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琉球方言には「なんくるないさ」という言葉がある。「何とかなる」といった意味である。沖縄出身の石嶺は、度重なる試練を軽やかに「何とか」してきた。身長174センチ。小柄な体をクルリと回して、外野席へと白球を突き刺してきた。指名打者として3度のベストナインに輝いたが、プロ入り当時は捕手だった。

石嶺 少年野球を始めたころ、投げるときの肘の使い方が、二塁送球に向いていると判断されたんです。でも「抑えたら投手のおかげ、打たれたら捕手のせい」という雰囲気が苦手で、早く捕手をやめたいとずっと思っていました。

78年のドラフト2位で阪急に入団した。当時から左膝半月板がずれる故障を抱えており、79年末には手術も受けた。83年夏に捕手断念を決意。ここから人生が好転する。

石嶺 投手のリードを考えることから、完全に解放されました。テレビで他球団の好打者の様子を見ていて「打つだけなら、俺も十分やっていけるんじゃないか」と切り替わりました。

誰かに教わったわけでもなければ、創意工夫をこらした覚えもない。打ちやすいように打っていたら、無駄のないフォームができていた。意識したのは、軸をしっかりさせて回転を利かせることだけだ。86年に指名打者の座を固め、4月29日ロッテ戦から7月25日ロッテ戦まで、56試合連続出塁を果たす。当時のプロ野球最長だった。シーズン33本塁打。規定打席にも到達し、3割ちょうどの好成績を収めた。すると、思わぬ相手が助言を求めてきた。押しも押されもせぬ3冠王、ロッテの落合博満である。

石嶺 内角に入ってくる左投手の球の打ち方を尋ねられました。びっくり仰天しましたよ。恐れ多くて、何も答えられませんでしたけどね(笑い)。

好事魔多し。86年オフに急性肝炎と診断され、兵庫・西宮市内の病院に入院した。

石嶺 試合が終わると必ず外食し、ついでに酒も飲んでいました。強かったもんですから、毎晩かなりの量になっていましたね。入院した後も、考え込んでも仕方ない。病室で週刊誌を何冊読んだかなあ。

翌87年、チームの高知キャンプには合流したのは最後の4日間だけだった。選手生命の危機に立った青年は、周りの度肝を抜く働きを見せた。4月の打率4割4分1厘、30安打、22打点はパ1位。9月2日西武戦から10日近鉄戦までの6試合連続本塁打は、現在もパ・リーグ最長である。年間通しても34本塁打、91打点。3割1分7厘は自己最高。試合前に点滴を受けて球場入りし、グラウンドでは相手投手の“天敵”となった。近くに内科がないときには、産婦人科に頼み込んで点滴を受けたこともあった。

石嶺 キャンプやオープン戦の疲れがなかったからこそ、打てたのかもしれませんね。周りからは「来年からもう、キャンプなんてやめようか」なんてからかわれましたよ。

体調も戻り、順風満帆に指名打者として活躍していたところ、意外なライバルが身内になった。88年に40歳にして本塁打と打点の2冠を取った門田博光が、同年オフ南海から新生オリックスに加わった。同じ指名打者。それでもすぐに気持ちは切り替わった。

石嶺 確かに決定を聞いた瞬間は驚きました。でも直後に「試合に出るには、外野を守らないと」とだけ考えました。

指名打者専任だったころも練習では外野ノックこそ受けていたが、89年から一層の集中力で練習に励んだ。左翼で64試合に出場。これが刺激になった。

石嶺 DHのときは、意外と時間の過ごし方に苦労しました。ベンチ裏で阪神戦のテレビを見たり、割とうろちょろしてました。でも守りにつくと、攻守のリズムができました。

90年に門田は42歳となり、石嶺は左翼専任と腹をくくった。この年の外野手としての14補殺は、愛甲猛(ロッテ)と並びパ最多だった。そして打っては、デストラーデ(西武)とタイトル争いを展開。106打点でタイトルを分け合った。西宮を本拠地とする年で、そして「ブレーブス」として最後のタイトルホルダーだった。

石嶺 打点は、前の打者が塁に出ないと打っても増えませんからね。あまり意識はありませんでした。まあ、2位では名前が残りませんからね。今にして思えば、取ってよかったかなとは思います。

故障、病気、そして指名打者からの外野手転向。ピンチの連続を「なんくるないさ」と乗り越えてきた石嶺の姿は、歴戦のパ・リーグ強打者の中でも異色の輝きを放っていた。

◆石嶺和彦(いしみね・かずひこ)1961年(昭36)1月10日生まれ、沖縄県出身。豊見城では甲子園に2年春から3年夏まで4季連続出場。78年ドラフト2位で、広島と入札競合の末に阪急(現オリックス)入団。在籍中の241本塁打は球団5位。86、87、90年パ・リーグ指名打者ベストナイン。94年阪神へFA移籍し96年引退。1566試合、1419安打、269本塁打、875打点、打率2割7分3厘。現役時代は174センチ、75キロ。右投げ右打ち。引退後は中日、DeNA、オリックスでコーチを歴任。現在は沖縄県に本拠を置くエナジック硬式野球部監督。

○…石嶺氏はオリックスと阪神の日本シリーズを待望している。94年に阪神へFA移籍。「セ・リーグの野球も経験したくて阪神に移りました。甲子園ではお客さんが多く、巨人戦で試合前の練習中に入場が始まったのはびっくりしましたよ」。阪神には中日コーチ時代に選手とコーチとして接した井上一樹ヘッドコーチ(50)、オリックスにはともにプレーした中嶋聡監督(52)がいる。「井上コーチは本当に野球が大好きで、よくやっていると思いますよ。中嶋監督は若いころから正捕手を任され、いつも落ち着いていました。いずれにせよ、野球をするのは選手です」。セ、パで首位争いする2人に「うまく選手を使い、ともに優勝してほしいものです」とエールを送った。