振り返れば、あの日が長く低迷していたオリックスの“改革初日”だったと思っている。

15年シーズン最終盤の9月。試合がないオフだったため、福良淳一監督代行は、自宅近くの理髪店に出向いた。穏やかな昼下がり。携帯電話が鳴った。発信者は、当時の球団本部長だった。

「決まったみたい。来年、お願いしますと、言われたよ」。福良監督代行の、翌シーズンの監督昇格が正式に決まった。同行取材を許されていた私は、監督就任という貴重な瞬間に立ち会えた。この年、森脇監督が6月に成績低迷の責任を負って休養。福良ヘッドコーチが監督代行として指揮を執った。立て直しを図り、後半戦は上位とも互角に戦っていた。

理髪店から場所を移し、2人でコーヒーをすすった。私は「就任おめでとうございます」と言葉を向けた。だが、福良“新監督”に喜ぶ雰囲気はない。就任第一声とも言える、厳しい顔でのつぶやきが、6年たった今も忘れられない。

「めでたいんかな…。これから大変や。このチームを変えるには…。大幅な血の入れ替えをしないといかんやろうな。半分? いや、もっとや。最低でも、5年はかかるで。優勝するためにはな…」

95~96年の前回優勝をイチローとの1、2番コンビで支えた指揮官の、チーム再建宣言だった。

その後、監督としての3シーズンはBクラスだったが、チームの新陳代謝を図っていった。16年ドラフトでは創価大・田中を強く推すフロントの意見をひっくり返し、「希望を聞いてもらった。先発の柱になれる」と東京ガス・山岡を一本釣り。18年10月の育成統括GM、19年6月のGM兼編成部長に就任後もチームを支え続けた。

低迷期のオリックスのフロントと言えば、一方的な戦力補強を行うものの現場に意見を求めず、成績が下位に沈めば責任をなすりつける流れの繰り返しだった。だが今、現場を熟知する福良GMの存在は、現役時代から互いをよく知る中嶋監督にとっても、ありがたかったはずだ。

“あの日”のつぶやきがスタート地点だった中長期的な計画は、少しずつ、だが着実に進んだ。15年の支配下登録選手71人のうち今季も現役だったのはT-岡田、安達、平野、比嘉、海田らわずか18人しかいなかった。一方でプロ5年目以下には山本、宮城、山岡、福田らがおり、チームの主力級が並ぶ。福良GMを中心としたフロントの変革が、25年ぶりの歓喜につながったと、強く感じている。【15~17年、オリックス担当 大池和幸】