南海、ヤクルト、阪神、楽天で指揮を執り、昨年2月11日に84歳で死去した故野村克也さんをしのぶ会が11日、神宮球場で行われ、関係者約600人が参列した。ヤクルト高津臣吾監督(53)は、弔辞を読んだ。

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全文は以下の通り。

 

東京ヤクルトスワローズを代表して野村監督に謹んでお別れのあいさつを申し上げます。野村監督まずは日本一の報告をさせていただきます。日本シリーズの指揮は苦しく、難しく、それでも楽しく、勝つ喜びは何事にも代えがたいものがありました。そして日本一になったいま、野村監督は勝ったあとにどんなことを思っていたのだろうと考えたりもします。今日監督への思いを述べるにあたり、いろいろなことを振り返りました。1992年11月、その年の日本シリーズで西武ライオンズに敗れた我々は、宮崎県西都市で秋季キャンプを行っていました。「高津、100キロのシンカーを投げられないか」。このひと言が私の人生を大きく変えました。それまで、速球で空振りが取りたい、速い球を投げないとプロでは通用しないと思っていた私に、まるっきり反対のことを言われたのです。半信半疑で取り組んだ100キロのシンカーはその後、私を大きく成長させ、いつのまにか絶対必要な武器となっていました。

ある年の試合が少なくなった9月ごろ、優勝争いの最中の試合で、私は同点の9回からマウンドに上がりました。同点のまま延長戦へ。10回、11回となんとか無失点で切り抜け、12回の表に味方が得点し、その裏を抑えれば勝ちという場面でピンチを迎え、私が投げてるとき初めて野村監督がマウンドにやってきました。4イニング目で疲れが出てきた私に、監督は「高津、もう少しだ頑張れ。明日は投げさせないから」。ピンチをなんとか抑えその試合を勝利しました。次の日の試合、私はなぜか8回から登板し、2回を投げ、監督と勝利の握手をしていました。優勝争いの中とはいえ、監督ってすごいなと思いました。私は完全に監督の手のひらで転がされていました。ただ不思議と嫌な感じはしませんでした。とにかく目の前のことに全力を尽くす。私もチームを預かる立場になり、その時の監督の気持ちが分かるようになりました。ただ、もし同じ場面があったとしても、私はマクガフに同じことは言いません。

グラウンド以外の思い出は多くはないですが、1つ大きな思い出があります。大阪である番組の収録。監督と2人で出演するため、前夜から大阪入りしていました。夕食をご一緒させていただくことになり、何時にこの店と指定され、少し早めに入店すると、カウンターに1人のお客さん。その方は沙知代夫人でした。少し遅れて来られた野村監督と、沙知代夫人の間に座って食べた、おそらくおいしい料理の味は全く覚えていません。

野村監督は非常に言葉を大切にされる方でした。私はいつもその監督の言葉に救われていました。抑えて戻ってくると「サンキュー。ありがとう」。この言葉が聞きたくて頑張ってこれたと言っても大げさではありません。1999年、監督がスワローズを離れた後、球場であいさつにいくと必ず第一声は「抑えにして悪かったな」。監督は抑え投手がどれだけプレッシャーを背負い、どれだけつらいポジションか理解してくれてました。監督が私を抑えにしてくれたから長くプレーができました。そして今もスワローズのユニホームを着ています。「頭を使え。頭を使えば勝てる。最下位なんだから好きなように思い切ってやりなさい」。この言葉は昨年1月のスワローズOB会で最期にかけてくれた言葉でした。課題を与え、グラウンドではのびのびと野球をやらせてくれる、野村監督らしい最期の言葉でした。私の役目は野村野球を継承していくこと。残すこと。そしてそれに新しいものを加え、スワローズウェイを今の選手に伝えていくことではないんじゃないかと思っています。野村監督が作り上げた野村野球、すなわち考える野球。頭でやる野球の遺伝子は今も、そして、未来も生き続けています。あの一塁ブルペンの後ろからのしのしと歩いてくる姿。ベンチに座って戦いを見つめる表情。勝負に厳しく、そして人に優しく。大きな腕時計、派手なネクタイ。おそらく今も大好きなきんつばを食べながら、スワローズの野球に、日本の野球に、ぼやいていることでしょう。すべてを忘れません。どうかこれからも我々の野球を見守ってください。そして、大好きな野球を楽しんでください。最後に監督にこの言葉を送ります。感謝、感謝、感謝。

令和3年12月11日、東京ヤクルトスワローズ高津臣吾