日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。

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Jリーグを立ち上げ、日本サッカーをワールドカップ(W杯)の常連国に成長させた川淵三郎(JFA相談役)は、フランス代表監督を務めた吉田義男に「日本サッカーの父」と称されるデットマール・クラマーをだぶらせた。

1964年(昭39)の東京オリンピック(五輪)に出場することになった日本サッカー協会は、初の外国人コーチとしてクラマーを招請。代表メンバーだった川淵らにサッカーの基礎から戦術までをたたき込んだ。

「ドイツ人指導者だったクラマーさんは、サッカー未開の地だった日本に来るわけですが、芝でないデコボコの土のグラウンドがほとんどで練習場もない環境でした。ボールの蹴り方から止め方、基本を一から教わったし、それが日本サッカーの礎になりました」

サッカーリーグ創設にかかわったクラマーは、後に殿堂入りする。東京五輪でベスト8に入り、釜本邦茂、宮本征勝、杉山隆一らを擁した68年のメキシコ五輪では銅メダルの獲得につながった。

川淵が早大サッカー部の先輩から吉田を紹介されたのは、90年代に入ってからだ。その先輩は総理の椅子を狙う大臣たちのパトロンで、政官スポーツ界に幅広い人脈を持っていた。大物実業家でもあるその人物は「人間は権力だけでは付き合えない。でも勢い盛んだった当時の吉田とはだれもが付き合いたかったはずだ」と振り返った。

吉田は85年にセ・リーグ優勝、日本一を遂げたが、2年後の87年は最下位に沈んだ。史上最強の名ショートとして鳴らし、監督としても上り詰めた男にとって屈辱だったに違いない。

失意のどん底にいた吉田が心を突き動かされたのが、フランス野球との出会いだった。欧州ではサッカー、フットボールなどが盛んで、野球の発展途上国というより、まるで素人同然のレベルだった。

それでも吉田はパリ大学クラブ(PUC)で指導に取り組み、代表監督として五輪出場はかなわなかったが、91、93年の欧州選手権で4位まで押し上げた。川淵はそのフロンティア精神に共感する。

「まともな野球場もなかったみたいで、言葉も通じず、指導するのは根気がいったと思います。極端かもしれないけど、野球はピッチャーを筆頭に個人種目といっていいかもしれない。フォーメーションで動くサッカーは相互理解して戦わないと、1人が目立って活躍することはない。吉田さんは1人1人の気持ちを1つにし、いわゆるチームプレーをもたらしたのだろう」

第2次吉田阪神が誕生したのは84年オフだった。監督の安藤統男が辞任し、次期指揮官の選定は混沌(こんとん)とした。それは筋書きのないドラマだった。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)