日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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吉田が提唱した「センターラインの強化」で組み上がったのは、岡田彰布、平田勝男の二遊間コンビ。「ちょっと頼りなかったピッチャーを守備力でカバーしたかった」。守りで攻める野球を描いた。

85年の中堅は、弘田澄男が62試合、北村照文が99試合に出場した。気がかりは、それまで笠間雄二と山川猛で併用策がとられていたキャッチャーのポジション。吉田には登用したい男がいた。

それが3年目の木戸克彦だ。PL学園、法大を経て82年のドラフト1位で阪神入り。野球エリートだが、出場機会は故障もあって1年目が8試合、2年目も26試合にとどまった。

遊撃手だった吉田は、いかに捕手の役割が重要かを知り尽くしている。村山実、小山正明、渡辺省三ら投手をリードする山本哲也の配球でポジショニングを変えながら守ったからだ。84年は住友金属から捕手嶋田宗彦も加入した。

ヘッドコーチの土井淳は、大洋(現DeNA)の捕手出身の監督経験者で、木戸を指名した経緯についても鮮明に覚えている。

「よっさんからはバッテリー強化でも、特にキャッチャーを育ててほしいと要望された。木戸は盗塁はされるかもしれないと思ったが、若いのに投手に対する気遣いも含めて、リード力があると思ってみていました」

84年は“ミスタータイガース”と称されたアーチストの田淵幸一が、移籍した西武ライオンズでユニホームを脱いだ。木戸にとっては大学の先輩、スターだった田淵から背番号22を受け継いだ形だった。

85年の木戸は102試合にマスクをかぶった。打つほうも13本塁打で、ダイヤモンドグラブ賞。嶋田は7月30日から29試合に出場する。吉田は木戸に主戦捕手で起用することを予告したときの表情が忘れられなかった。

「『来年はお前がキャッチャーやからな』と告げると、木戸はキョトンとして半信半疑だったのが思い出されます。わたしはバットより捕手としていけると思ったんですわ」

木戸を“扇の要”に据えて布陣は固まった。先行き不透明なコンバートに若手起用。吉田に「成功するか不明なのに、監督として無謀なチーム作りでは?」と意地悪な質問をぶつけるとムッとした。

「答えがあるわけではないし、(結果が出るまで)間違っていたかもしれません。でも選手をひたすら信じながら信頼関係を築く。そこに理屈は必要でしょうか。監督として思い込むしかないんですわ。おのれが下した決断が正しいと…」

球団創設50周年のメモリアルイヤーが猛虎の年になるとは、だれが予想しただろうか。【寺尾博和編集委員】

(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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