阪神1軍打撃コーチにOBで日刊スポーツ評論家の今岡真訪氏(48)の就任が28日、正式決定した。球団からの正式要請を受諾した同氏は「岡田監督を男にする!」と本紙に熱く決意表明。阪神1軍の指導は初めてで、来年2月の沖縄・宜野座キャンプから本格始動する。第2次岡田阪神の“目玉的参謀”として、03、05年の優勝に貢献したスラッガーが18年ぶりのV奪回に全力を注ぐ。【取材・構成=寺尾博和編集委員】

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阪神で再び、タテジマのユニホームに袖を通すことになりました。来年から、1軍打撃コーチに専念させていただきます。「岡田監督を男にする!」--。「あれ」とか「それ」ではなく、今の心境は、その1点に集約されます。

実は、今回監督に声を掛けていただいたとき、態度を「保留」しました。体調が芳しくなく、静養している身でした。万全ではないのに受けるのは失礼です。白紙になっても仕方がないと思っていましたが、監督の答えは「待つ」でした。

リーダーが組織を束ねるのに、全員に同じことを説くタイプもいれば、それぞれに要点を伝える方もいます。初めて指導を受けたのはプロ2年目の98年、シーズン後に高知県で開催されていた黒潮リーグ。オリックスの2軍助監督を経て、阪神2軍打撃コーチとして復帰1年目だった岡田監督との出会いです。

主に二塁、遊撃手が教わるのは「守備が7割、打撃3割」が定番。でも岡田監督から言われたのは「お前は打ってナンボ」という教えでした。守備力を重視するならお前じゃないという意味でしょうね(笑い)。

仮に10人選手がいたとすると、岡田監督は“十把ひとからげ”の指導はしない。1人1人の特長をつかみ、それぞれに“処方箋”を出す教え方です。それまではジッと動きを観察し、その選手が必要としているタイミングに、必要なことだけをいう。余計なことは一切しゃべらない。

97年阪神入団時の監督は吉田義男さんで、03年に星野監督、05年岡田監督のもとで優勝を経験できたのは最高の幸せでした。よく当時のことを聞かれますが、僕のターニングポイントはそこではありません。4年目の00年は1、2軍を行ったり来たりで、出場は40試合。「今岡はダメだ、ダメだ」と言われて自信も失いかけたしんどい時期で、クビかもと思い始めました。

ここでやめても、これも人生、とまで弱気になった僕の背中を押してくれたのが2軍の岡田監督でした。「お前ならできる」「お前の思うようにやったらええ」。言葉でいうと、そんなイメージでしょうか。

打撃、守備、走塁の技術論ではない。中途半端だった立場の迷いを消し、再びやる気にさせ、引き上げていただいた。ずーっと、しんどかったけど、死に物狂いになって、今岡は変身しました。

岡田監督1年目の04年、タイプではないのに選手会長も引き受けました。自分をどん底からはい上がらせてくれたこの人を優勝まで引っ張りたい。そう思っていたので、タイトルより恩義に報いることができたことの方がうれしかったです。

今回も監督の下で学びたいという気持ちが強いです。年明けからの指導になりますが、コーチとして選手の能力を見抜く、引き出すことが大切と思っています。ファンのみなさん、期待してください。これまでの経験を生かし、黄金時代を築くための一助になりたいと強く思っています。

◆今岡氏と岡田監督 プロ2年目の98年から08年まで11年、ともに阪神に在籍した。98年に岡田氏がオリックスから阪神に復帰し、2軍打撃コーチに就任。99年から2軍監督となった。今岡は遊撃のレギュラーだったが、野村監督時代の00年は1軍戦出場が40試合に激減。ファームで岡田2軍監督の指導を受け、01年は高知・室戸市の2軍キャンプにも参加した。星野監督2年目の03年には岡田氏が1軍守備・走塁コーチに就き、主力で優勝を分かち合った。岡田氏が1軍監督に就任した04年には、初の全138試合出場。翌年05年は5番に固定され、二塁から三塁手へコンバート。球団シーズン記録の147打点をたたき出した。

◆今岡真訪(いまおか・まこと)1974年(昭49)9月11日生まれ、兵庫県出身。PL学園-東洋大。大学時代は東都リーグ史上9人目の100安打をマーク。96年アトランタ五輪銀メダル。同年ドラフト1位で阪神入団。強打の大型内野手として03年首位打者、05年打点王。2度のリーグ優勝に貢献。03年の初回先頭打者弾7本は球団最多。05年147打点はプロ野球歴代3位。10年はロッテに移籍し12年引退。実働15年で通算1309試合、1284安打、122本塁打、594打点、打率2割7分9厘。現役時代は185センチ、83キロ。引退後は阪神2軍コーチやロッテ2軍監督、ヘッドコーチなどを務めた。

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