#ありがとう熱男-。巨人松田宣浩内野手(40)が28日、現役引退を発表し都内で会見を行った。ソフトバンク時代を含め18年間に及ぶプロ野球選手生活にピリオドを打った。底抜けに明るいキャラクターでファンに愛され親しまれた熱き男は、ユニホームを脱ぐと同時に、次なる目標を「野球界の松岡修造」と宣言。後継者には浅野を指名した。残りのシーズンは29、30日のイースタン・リーグに出場予定。笑顔と涙に包まれながら、熱男らしく現役に別れを告げた。
引退会見の主な一問一答は以下の通り。
-最初に引退を決断した理由とタイミングは
約1年前に原監督さん、球団関係者とのご縁でこうして読売ジャイアンツの一員になることができました。そのときに原監督さんから「ムードメーカーではなく戦力として考えている」という…(涙で詰まる)、戦力として考えているという温かい言葉をいただいて読売ジャイアンツに飛び込んできました。とにかくジャイアンツのために一生懸命やる、ただそれだけでした。そのために何が出来るかを考えてやってきました。その中で1軍でプレーしても結果を出すことが出来なかったのは正直な思いです。2度目の2軍降格になった時の夜に、妻にそろそろ引退の時期かなという思いを打ち明けました。正式に思いを伝えたのは、横浜3連戦の最終戦後に原監督さんに自分からお時間を頂き、そこで引退させていただきますとご報告させてもらいました。
-原監督からはどんな言葉が
「18年間、よくやってくれたよ」という温かい言葉を頂いて、結果として出せなかったので、ジャイアンツ、原監督さんに対しては申し訳ない気持ちで今はいっぱいです。
-巨人の1年間は
この1年、ジャイアンツのみなさんには自分の2つの思い、考えをかなえてもらいました。まず1つはプロ野球に入った時から数字より40歳までプレーしたいという思いを掲げてプレーしてきて、昨年途切れるかと言う時に、最後チャンスをいただいたのもジャイアンツですし、40歳までプレーするというチャンスを与えていただいたのはジャイアンツなので、そこに感謝の気持ちでいっぱいです。もう1つは当然少年の時に応援していたチームは必ずあったと思います。自分は家族も全てジャイアンツファンでした。食事を済ませ、宿題を終わらせ、野球の練習を終わらせて家族みんなでジャイアンツの応援をテレビの前でしていました。それだけジャイアンツが好きだったので、だから最後にこういう…(ハンカチで目頭を押さえる)ジャイアンツのユニホームを着て、野球生活を終えるというのは本当によかったと思います。
-ソフトバンクでは17年間。こちらは
17年という期間をホークスでプレーさせていただいていいことも悪いことも経験して、プロ野球という世界で数字を出すことができましたし、ソフトバンクホークスで17年間やってこなかったら、最後に巨人でもできなかったので、両球団には感謝の気持ちでいっぱいです。
-印象的な出来事は
まず18年間、現役生活を終わってみて、一番の打席はソフトバンク時代の2014年のシーズン最終戦のサヨナラ安打です。勝った方が優勝という試合で、チームのために打てたあのサヨナラヒットは18年の中で一番の当たりでした。今でも左中間へ飛んでいく当たりだったりとか、バットの感触は忘れることが出来ません。巨人では思うような結果は出すことが出来なかったので、一番の忘れることができない出来事は開幕戦で東京ドームで打席に立たせていただいて、コールされた時に右翼席のジャイアンツファンのみなさんから大歓声をもらったことです。ようやく巨人の一員になれたとホッとしましたし、あの歓声は2度と忘れられないなと思います
-プロ野球選手としての人生は
本当に一番の目標の40歳まで現役でプレーするという一番の目標はクリアさせていただきました。現役引退を発表してから、今感じているのは、もうやり残すことがないくらいいっぱい練習しましたし、いっぱいバットを振りましたし、いっぱいボールを捕りましたし、いっぱい声を出しましたし、もう悔い残すことなくやってこられたと思います。その中で40歳までやってきてあまり数字にはこだわらなかったんですけど、1921試合、1832安打、301本塁打、991打点、ベストナイン1度、ゴールデングラブ8度、オールスター7度と、数字にはこだわってこなかったんですけど、とにかく一生懸命やってきた結果がこのような数字が残ったので、私個人としては満足のいく数字だったかなと思う。自分をほめてもいい数字だと思いました。
-自分の野球人生に点数をつけるなら
若い頃、この辞める2年はきつい思いをしたんですけど、いい時もあるしも悪い時もあるし、そういう意味では18年間プレーさせていただいたので点数をつけると、「100熱男」です。100点満点の数字を出してあげたらいいと思いました。
-熱男という言葉が代名詞
本当にうれしく思うのは、巨人に来ても東京ドームでもジャイアンツ球場でもファンの方がたくさん声援をくれました。その中で松田選手と言うより、巨人でも熱男という呼び名で呼んでくれてうれしいと思いましたし、2015年にソフトバンクで工藤監督が熱男というスローガンを選んでいただき、選手会長として熱男を広めたい、ただそれだけで熱男という言葉を本塁打の後に叫んでました。ホークスでも熱男とともに戦ってきました。熱男というパワーはとてつもなくて自分の中では熱男と出会ってから5メートルくらい飛距離が変わったし、熱男と出会って本塁打の数も伸びたと思います。熱男との出会いはプロ野球人生の中で大きかったと思います。
--今後は
18年間、プロ野球選手として、1日も力を抜くことなく元気出してやってきました。今はおなかいっぱい野球をさせてもらった状態です。まず今年は単身で東京に来て巨人でプレーさせて頂きました。家族もいつも支えてくれました。その中で今後はサポートしてもらう側から、サポートしてあげる側に回りたいなとおもいますし、家族の存在は自分の中ですごく大きいので、1人の父親として、2人の子ども、妻のために父親という仕事をやってみたいなと思いますし、長男も中学で硬式野球をやってます。しっかりゆっくり見てあげられるのも2年くらいだと思いますので、息子のために僕が経験してきた野球というものを伝えていきたいなと思います。そしてゆくゆくはプロ野球界にも、巨人にもお世話になりました。そこに恩返しできる人間になりたいと思いますし、自分のこれからの目標は野球界の松岡修造さんみたいな熱い人間になることを次の目標にして、次のステップに入って行けたらと思います。
-家族への思い
単身できて、これまで当たり前のことが当たり前じゃないと思いましたし、常に家に帰ったら、妻であったり子供たちが、働く、見守ってくれましたし、妻の存在は僕にとっては大きくて、プロ野球で一緒に進んできたパートナーだと思います。その中でホークス時代は家帰って夜食事を食べてその後、毎試合、妻と2人でバッティングを振り返りました。妻は何もわからないと思うんですけど、2人でああでもないこうでもないと言って、その日も反省して、また明日頑張ろうっていうのが、ホームでの日課でした。今年に関しては、そういうこともできなかったですし、そういう家族の存在っていうのは、元気の源だったと思いますし、最高の妻と出会って子供たちと出会って、こうやって子供たちが、記憶に残る年ぐらいまではプロ野球選手としてできたんで、本当に良かったと思います。今度は1人の父親として、近くにいて、サポート側に回れる、そういった父親になっていけたらいいなと思います。