日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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日本を代表する甲子園球場が8月1日に“100歳”の誕生日を迎える。1924年(大13)の開場から高校野球、阪神タイガースの本拠地として歩んできた。長い歴史にかかわった1人に、伝説のグラウンドキーパーがいる。
藤本治一郎(じいちろう)-。吉田義男、三宅秀史、村山実、田淵幸一、掛布雅之、岡田彰布らスターも、この人にだけは頭が上がらなかったという。「じいやん」と親しまれ、「土守(つちもり)」と称された。
藤本の長男・昌男(73)と会った。北陽高の野球部出身で、阪神監督を務める岡田の先輩にあたる。「初めて紹介された時、『えっ、じいやんの息子?』って驚かれましたよ」。大院大を経てサラリーマン生活を送ってきた。
「現役時代の岡田が球場から帰る時、おやじがイレギュラーしたグラウンドの土を懐中電灯をつけて点検する姿を見て『何も文句が言えんようになった』と周囲に話したらしいですね」
治一郎は兵庫県鳴尾村出身で高等小学校を卒業し、15歳で阪神電鉄に入社。三原脩が監督だった巨人に入団した時期もあったが、すぐに母かねに連れ戻された。その後、甲子園でバイトをしていた二三四(ふみよ)と恋愛で結ばれた。
戦前からグラウンドキーパー一筋47年間。昌男は「1つの仕事に信念をもって打ち込む姿は立派だったと思います」と敬意を持つ。
「厳しいし、怖かったけど、優しかった。家に帰っても、甲子園の話をしたことはほとんどないんです。ビールをゴクゴク飲んで、次は日本酒かウイスキーで、それでスッと寝てしまう。今思えば、いつも気が張っていたんでしょうね」
若い頃の江夏豊はマウンドで唾を吐いて、藤本に「ばか野郎!」と怒鳴りつけられた。土が口に入って「ペッ」と捨てただけだったが、その後は言いつけを守った。サード掛布は手でならし、コンディションを知るために土をなめた。
「広島戦の後、あるスポーツ紙の記者から『今日はイレギュラーしたから負けた』みたいなことを言われたそうです。よほど悔しかったんでしょうね。トラクターで一から土を起こして、徹夜でグラウンドを整備したようです」
治一郎の父・治良吉(じろきち)が漁師で少年時代から仕事を手伝っていたことから、天気には敏感になった。来年100歳を迎える妻・二三四には「グラウンドは生き物」「甲子園は命」と語っていたという。
「雲が“京参り”(北東に向かう意味)してくるから雨が降ると言ったし、大阪・堺の方の海から発生し、神戸に回って山沿いに走る夕立は、南北の堺の方角を示した“辰己の夕立”と言いましてな」
外野は夏芝と冬芝の二毛作で年中、緑を保つ。1年を通して青々と鮮やかなのは、治一郎らが研究を重ねながら取り組んだ成果だ。球場にミニスカート、ハイヒールがそぐわないと言われるようになったのも、グランド整備の伝説が契機になった。
治一郎は95年7月19日に70歳でこの世を去った。昌男は「おやじが甲子園の100年に少しでも役に立ったのであれば誇らしいです」と言った。華やかなメモリアルの舞台裏には、“聖地”と認められるまでに守り続けた裏方たちのプライドがあった。(敬称略)



