日本ハムの小林繁投手コーチが17日午前11時、心不全のため、福井市内の病院で死去した。57歳だった。72年に社会人の神戸大丸から巨人に入団。76、77年に18勝を挙げて優勝に貢献すると、79年には「空白の1日」とも呼ばれる江川事件で阪神に移籍し、22勝を挙げて最多勝となった。昨年から日本ハムの2軍投手コーチに就任し、今年から念願の1軍コーチに昇格。前日16日には都内で行われた日本ハム本社の行事で元気な姿を見せており、突然の悲報となった。

 突然の悲報だった。小林氏はキャンプインを15日後に控え、自宅のある福井市で息を引き取った。

 16日には、都内で行われた日本ハム本社の商品展示会に出席した後、空路帰宅した。この日は午前6時30分に起床。8時ごろに「背中が痛い」と訴えたため、夫人がマッサージを施した。少し楽になった様子だったが、再び苦しみ出し、10時30分ごろに意識を失ったという。福井市内の病院に救急車で搬送されたが、意識を取り戻すことはなく、この世を去った。

 小林氏がプロ野球界で特別な存在となったのは、あの「江川問題」の当事者だったからだ。堀内、新浦とともに巨人の3本柱と呼ばれていた79年1月31日。突然のトレード通告により、江川と交換で阪神に移籍した。その際の潔さと精神力の強さが、人間としての魅力を引き立たせた。けっして泣き言は言わず、巨人に対する恨みつらみを声高に叫ぶこともなかった。「仲間に迷惑をかけたくない」とキャンプ地の宮崎に荷物を取りにいくことすら断念した。そのシーズン、阪神で22勝を挙げ、最多勝を獲得した。古巣巨人相手には、8連勝を記録した。

 由良育英高から神戸大丸と、野球のエリートコースを歩いてきたわけではない。プロに入っても、だれかにこびることなく、自らのやり方を貫いた。勝つために、あの変則投法を編みだし、自らの前に立ちはだかる壁を壊してきた。反骨精神のかたまりでありながら、立ち振る舞いはダンディーだった。歌を歌わせればプロ級。親交のあったクールファイブの前川清からは「お前なら歌手で食っていける。(野球は)やめちゃえ」と言われたこともあった。

 引退後はスポーツキャスターや参院選出馬など、ユニホームを脱いでも注目を集めた。97年から近鉄で梨田監督の下、投手コーチを務め、01年にリーグ制覇。韓国プロ野球SKのコーチも務め、昨年、日本ハムの2軍投手コーチとして日本球界に復帰。今季からは1軍コーチとして、再び梨田監督とタッグを組んでパ・リーグの頂点を目指すはずだった。前夜も、自室で今季から加入する新外国人投手のDVD映像を見てキャンプへ備えるなど、新シーズンに気持ちを高めていた。

 社会人の神戸大丸時代は神戸に居を構えていた。15年前のこの日は、阪神大震災が起こった日でもあった。所属する個人事務所の橋本明良氏は「神戸が好きでした。すごい因縁を感じます」と語った。あまりに早すぎる他界だった。

 [2010年1月18日8時42分

 紙面から]ソーシャルブックマーク