84年1月、新日本プロレス一関大会で攻めるダイナマイト・キッド
84年1月、新日本プロレス一関大会で攻めるダイナマイト・キッド

往年の名レスラーが次々に他界する中、ダイナマイト・キッドさんの訃報が一番ショックでした。12月5日、60歳の誕生日やったそうです。

37年前。キッドさんが相手を務めた81年4月23日、初代タイガーマスクのデビュー戦は見てません。高校2年の私はまだ、プロレスを“つまらんショー”と思ってました。同年9月23日の田園コロシアム、ハンセン-アンドレ戦を見たのがプロレスにのめり込むきっかけですが、それを加速させたんが彼でした。

テレ朝「ワールドプロレスリング」の実況・古舘さんが「戦う貴公子」「鋭利な刃物」そして、リングネームそのままの「爆弾小僧」と熱弁した男のファイト。倒れた相手をメチャクチャ踏みつけるストンピング。滞空時間の異様に長い、コーナーポスト最上段からのダイビング・ヘッド。ざんばらの金髪。彼のイラつき、エキセントリックさにハマりました。好きなレスラーは今でも「ハンセンとキッド」です。たたずまいが醸し出す風情。どんなジャンルでも、それがあってこそのプロと教えてもらった気がします。

早すぎる不幸の予兆は、すでに当時からあったんやないでしょうか? 82年の年明けやったか、再来日した姿を見て、絶句しました。金髪をバッサリ切った丸坊主頭も衝撃でしたが、何より体つき。古舘さんが「肉体の表面張力」と表現した極限のマッチョ化。たった数カ月でしなやかな細マッチョの体が消えた。学校のプロレス談議で「おい、キッド見たか?」「おお、何じゃあの体?」「トレーニングだけちゃうやろ?」「なあ、絶対やっとるで」「でも、あれやったら、体にめちゃ悪いんやろ?」-。今でこそキッドさんが筋肉増強剤ステロイドを服用していたのは有名ですが、当時からプロレス少年には不安があったんです。

その後、キッドさんは顔つきがそっくりないとこ、デイビーボーイ・スミスと合体。ほどなくして主戦場を新日本から全日本へと移し、海外では当時世界の最大手マーケットになりつつあったWWFに進出。「ブリティッシュ・ブルドッグス」として暴れることになるんですが、素人目にも息の上がるんが早くなったように見えました。

身長173センチの体で、スーパーヘビーレスラーと渡り合うための決断やったんでしょうか? あんな体にならんでも、ソリッドでキレッキレのファイトのままでも十二分に魅力的やったのに…。ほんまに悲しく、残念です。【加藤裕一】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

84年7月、ザ・コブラ(下)のマスクをはぐダイナマイト・キッド
84年7月、ザ・コブラ(下)のマスクをはぐダイナマイト・キッド