“白衣のファイター”の戦いが、再び始まる。現役医師のキックボクサー、MASATO BRAVERY(岡田将人、30=BRAVERY GYM)が5日開催のKNOCK OUT代々木大会(東京・代々木第2体育館)で格闘家復帰戦を戦う。大分大医学部在学時の21年12月に1度は競技を離れたが、昨年末から活動を再開。RIZIN参戦経験もある渡慶次幸平(34=クロスポイント吉祥寺)とKNOCK OUT-BLACKスーパーウエルター級3分3回(延長1回)で対戦する。関東の病院に勤務しながら拳を交える異例の挑戦への思いを聞いた。

医者の国家試験に合格後、昨春から故郷の大分県を離れ関東へと拠点を移した。研修医として新たな人生を歩んでいたが、大分時代の活動を知る勤務先スタッフらの後押しもあり、復帰を決意。「自分の昔の活動を知っていて『また試合が見たい』と言ってくれる人もいて。大分でお世話になった人たちにも頑張っている姿をまた見せたかったですし、運動でジムで体を動かしている中で、また試合への思いが出てきました」。所属していたBRAVERY GYMの関係者にも意向を伝え、約1年3カ月ぶりの復帰戦が決まった。

格闘技を本格的に始めたのは20歳の時。高校卒業後に約2年間アルバイトして資金をため、タイへ修業に向かった。「ずっと格闘技が好きで、同じ名前の魔裟斗さんに憧れていました」。タイを選んだのは、当時、魔裟斗と激闘を繰り広げていた同国のムエタイ選手、ブアカーオの記憶も大きかったという。

現地には約1年半滞在。ビザの関係で働くことができず、ためた約200万円を切り崩しながらの生活だった。言葉や土地勘にも不安のある中、現地で知り合った知人に紹介されたバンコクの格安ジムに転がり込んだ。「今、思うとスラム街みたいな場所でした」。生活していたジム近所のアパートは家賃約1万円。シャワーも満足に浴びられなかった。「心を決めてここで頑張ろう」。厳しい生活の中で、ムエタイの基礎を学んだ。

タイでは出会いに恵まれた。お金はなかったが、周囲には親切な人が多かったといい「大家さん夫婦もいい人で、帰国後は大分まで旅行に来てくれました。近所の子どもたちも自分の状況を知っているので、お菓子をくれたりして。練習の空き時間はタイ語を勉強したり、充実していました」。

中学1年時に病気で他界した父が外科医だったこともあり、もともと周囲から医者になることを勧められていた。当初は頭になかったが、タイ生活中に人生を見つめ直す中で、医学部進学へと気持ちが動いた。22歳の春に帰国し、約1年間猛勉強。「久々に帰った地元が楽しすぎて遊んでしまう」と邪念を振り払うべく約8カ月間、ワーキングホリデーでニュージーランドに渡り、現地で集中して勉強に励んだ。見事1発で合格し、23歳で大分大医学部へ入学した。

医学部生として学びながら日本で活動し、18年にはWPMF日本ウエルター級王者にも輝いた。医学部生ファイターとして注目され、地元メディアに取り上げられることもあった。「今回は僕の中では第3章です」。当時は17社ほどのスポンサーに支えられていたが、勤務先の関係で今は契約ができない。格闘家としての資金はファイトマネーとチケットバックのみだが、それでも納得している。「戦う医者と言えば自分だと言ってもらえるようになりたいし、やるからには結果も残して、また何かのタイトルも狙いたい」と闘志をみなぎらせている。

将来の夢もある。タイで貧しい子どもたちに助けられた経験から、「ゆくゆくは貧困国に医療を届けられるような活動をしたい」と語る。「次は僕から恩返しをする番です。そういう活動ができる団体を作ることもいいんじゃないかなと思っています」。

5日に戦う渡慶次はミャンマーの格闘技、ラウェイの元世界王者でもある。「ムエタイ対ラウェイという構図も面白いですよね」と笑い「今の僕は練習時間も限られている分、相手を徹底的に分析して戦うスタイルに変わってきています。初めて肘なし首相撲なしのルールで試合をしますが、新しい自分の姿をみせて、当日は倒しにいきます」と決意を込めた。

大分、タイ、そして東京へ。壮大な目標も描く第3章のゴングが、まもなく鳴り響く。【松尾幸之介】

◆MASATO BRAVERY(まさと・ぶれいぶりー)1993年2月15日、大分県大分市出身。本名岡田将人。大分上野丘高校卒業後、アルバイトで費用を稼ぎ、13年4月から単身タイへ。約1年半ムエタイ修行を積んで帰国し、16年4月から大分大医学部で学びながら活動を開始。16年11月に東京・ディファ有明で行われたWPMF(世界プロムエタイ連盟)の大会でプロデビュー。18年6月、東京・新宿FACEで行われたタイトル戦に勝利し、WPMF日本ウエルター級王者となる。プロ通算成績16戦10勝(5KO)5敗1分け。男4人兄弟の長男。身長177センチ、血液型A。