演歌・歌謡曲の世界で「第7世代」と呼ばれる若手歌手が活躍しています。日刊スポーツ・コムでは「われら第7世代!~演歌・歌謡曲のニューパワー~」と題し、音楽担当の笹森文彦記者が、そんな歌手たちを紹介していきます。前回に続いてシンガー・ソングライターおかゆ(30)の登場です。

ギターを抱えポーズを決めるおかゆ(撮影・横山健太)
ギターを抱えポーズを決めるおかゆ(撮影・横山健太)

おかゆは亡き母の夢だった歌手になるため、22歳で流しの道を選んだ。当初は厳しい日々だったが、おんなギター流しとして徐々に知られるようになった。生活も少しだけ楽になった。 

おかゆ 自分の25回目の誕生日に自分への初めての誕生日プレゼントとして、コンサートのチケットを買ったんです。横須賀芸術劇場で行われる高橋真梨子さんのコンサートでした。ちゃんとしたコンサートに行くのは初めてでした。

高橋真梨子は母の大好きな歌手だった。母の十八番は「ごめんね…」。幼少の頃、歌手になる夢をあきらめるしかなかった母が、酔うと歌う「ごめんね…」は当時は好きではなかった。17歳の時、母は37歳の若さで他界した。アルコールが原因だった。直後に貿易会社の仕事を解雇された。絶望の中、1人でカラオケボックスでこの曲を歌った。涙があふれて止まらなかった。思い切り泣いた後、生きる目標を見つけた。「母の供養のためにも、母の夢だった歌手になる」。

おかゆ 高橋真梨子さんが(衣装を)着替え中、バックのヘンリーバンド(高橋の夫で音楽家のヘンリー広瀬が率いるバンド)のショータイムがありました。ムード歌謡を歌って、とてもインパクトがあった。単なるファン心理でツイッターをフォローしたら、返って来たんです。

この時はやりとりはなかったが、これをきっかけに運命の糸が少しずつ太くなっていく。

学生時代の親友の父親が茨城県・土浦市でライブスペースのある喫茶店を営んでいた。その親友から「今度ヘンリーバンドの小松崎純さん(キーボード)が来るから、ゆか(=おかゆの本名)も来たら」と誘われた。親友の父親とバンドメンバーの小松崎が同級生だった。

おかゆ もちろん!って。「圭子の夢は夜ひらく」「別れの朝」をセッションさせていただきました。初めて行ったコンサートからツイッターでつながり、直接的な接点ができた。しかも母が大好きだった高橋真梨子さんのヘンリーバンド。

運命の出会いは続く。流しで岐阜市に行った。繁華街の柳ケ瀬商店街の路面に埋め込まれた美川憲一のヒット曲「柳ケ瀬ブルース」の歌碑の前で、あぐら座りして同曲を歌った。動画を撮影し、後日YouTubeにアップした。岐阜市にはヘンリーバンドのサックス奏者で、作詞、作曲、編曲、そして歌手などマルチに活躍する野々田万照が住んでいた。岐阜市は野々田の故郷で、同市を音楽で活性化する活動にも尽力していた。

おかゆ 柳ケ瀬の街を盛り上げるためにどうしたらいいかとパソコンで検索していた時にYouTubeで私を見つけて、面白い子がいるなと。その時、(以前にどこかで)この子、小松崎と歌っていなかったかなと、私のことを認識してくれていたんです。

その頃、ムード歌謡を一緒に歌える歌手を探していた野々田から「歌を聴かせてほしい」と言われ、都内で会った。初対面だったが、かつての自分と母との関係、母が高橋真梨子のファンだったこと、流しをしていることなど全て話した。 

おかゆ 流しで売るもの持っているの、と聞かれて、「(収入は)おひねり(紙に包まれた祝儀のこと)です」と答えたら「ではCDを作らない?ヘンリーバンドをバックに、CDを作って売ればいいじゃない」と。そこからインディーズ(自主制作)のプロデュースをしてもらうようになったんです。

ギターを抱えポーズを決めるおかゆ(撮影・横山健太)
ギターを抱えポーズを決めるおかゆ(撮影・横山健太)

やがて自分のプロフィルのような曲「おんな流しのブルース」(作詞おかゆ、作曲編曲・野々田万照)が完成した。流しをしながら書きためた詞はあったが、作曲の知識はなかった。野々田に「鼻歌でラララでいいんだよ」と言われて曲作りにも挑戦した。「シンガー・ソングライターおかゆ」の誕生だった。スナックで働く女性の実体験を参考にした「オトナのワカレ」や、自分を投影した「ピエロ」などを次々と発表した。雑誌やテレビでも紹介されるようになり、知名度はぐんぐん上昇した。

おかゆ 実はプロとしての憧れがあったんです。酔ったお客様の前ではなく、しらふの方々の前で歌うこと。そして他の歌手の方がやっているショッピングセンターで歌うキャンペーンです。野々田さんに相談したら、できることになったんです。ショッピングセンターでの仕事をブッキングしていただいたんです。

やがて運命の糸がたぐり寄せてきたメジャーデビューへの道のりが完結する。ショッピングセンターでおかゆの前後に歌ったのは、レコード会社「ビクターエンタテインメント」所属の歌手だった。おかゆの歌を聴いたビクターのプロデューサーから「メジャーデビューしないんですか?」と声を掛けられた。

おかゆ インディーズにこだわってやっていると思われて、そう声を掛けていただいたんです。デビューしたいです!って、もちろん答えました。

同社は高橋真梨子の所属レコード会社でもあった。

おかゆ メジャーデビューしてから、真梨子さんと一緒にお食事をさせていただいたことがあります。フランス料理をごちそうになったのですが、緊張し過ぎて、まったく話ができなくて、ただ食べ続けていたのですが、全然おなかいっぱいにならなくて(笑い)。会話は「おかゆ、食べてる?」「あっ、はい」の繰り返しだけでした(笑い)。今は野々田万照さんを通じてアドバイスとかいただいています。

歌手を目指して流しを始めた2014年に、母の口癖だった「七転び八起き幸せに」を引き合いに「7842人に会う」という流しの目標を立てた。メジャーデビュー後の多忙さとコロナ禍もあり、実現していない。母を供養し、喜ばせたいと始めた流し。支えとなった目標の実現は、人生の一区切りでもある。

おかゆ コロナ禍は続いていますが、必ず実現したい。高橋真梨子さんのホームグラウンドとも言える東京国際フォーラムホールAにも絶対に立ちたい。真梨子さんのように、全てお客さんのために歌える歌手になりたい。ずっと歌い続けたい。

時に人生には、まるで「運命の糸」を証明するかのような「偶然」がある。高橋真梨子の名曲「ごめんね…」が発売された1996年6月21日は、くしくも、おかゆの5歳の誕生日だった。(おわり)

アルバム「おかゆウタ~カバーソングス~」のジャケット
アルバム「おかゆウタ~カバーソングス~」のジャケット
おかゆの新アルバム「おかゆウタ カバーソングス2」のジャケット
おかゆの新アルバム「おかゆウタ カバーソングス2」のジャケット

◆おかゆ 1991年(平3)6月21日、札幌市生まれ。17年3月に初ソロアルバム「おんな流しのブルース」発売。テレビ東京系「THEカラオケ☆バトル」で2度優勝。BSテレ東「徳光和夫の名曲にっぽん」6代目アシスタント。19年5月に「ヨコハマ・ヘンリー」でメジャーデビュー。1月26日にカバーアルバム「おかゆウタ カバーソングス2」を発表。2月6日に東京・有楽町のよしもと有楽町シアターでコンサート「有楽町で歌いましょう!」を開催予定。165センチ、血液型A。

◆プレゼント おかゆさんの女性用ライダーズジャケットを1人に。ご希望の方は必要事項を応募フォームに記入の上、ご応募ください。発表は発送をもって代えさせていただきます。締め切りは2月10日です。

「プレゼントの応募フォーム」はこちら>>https://quiz.nikkansports.com/answer/pc/284