世界的な演出家になる前の40代の蜷川幸雄さんの稽古場を何度かのぞいたけれど、灰皿を投げたり、罵声を飛ばしたり、今の時代ならパワハラ演出家と呼ばれたかもしれない。でも、稽古場から生まれた舞台はどれもが刺激的で美しく、驚きがあった。唯一無二の蜷川さんでしか作り出せない舞台だった。そして、俳優を育てる名伯楽でもあった。

草なぎ剛主演のドラマ「罠の戦争」で、草なぎ演じる鷲津が秘書として仕える犬飼大臣役の本田博太郎は蜷川さんが見いだした1人だ。79年の帝国劇場「近松心中物語」で主演の平幹二郎さんが腰痛で降板した時、蜷川さんが代役に指名したのが本田だった。

無名の群衆役に過ぎなかったけれど、稽古場で目をギラギラさせながら自分が出ていない場面の稽古もまじめに見ている本田の役者魂にかけた。本田と心中するつもりで臨んだ賭けは大成功だった。同年夏に上演された「ロミオとジュリエット」に本田をロミオ役で抜てきした。妻子を抱え、俳優としての将来に不安を感じていた本田にとって蜷川さんは、40年を超える俳優人生に導いてくれた大恩人だった。

主演映画の宣伝のため、木村拓哉は今年1月のテレビ番組によく出ていた。あるインタビューで「俳優人生の転機となった作品」に蜷川さん演出の89年「盲導犬」を挙げた。その時、木村は17歳。初舞台で挑んだ稽古場は悔しいことの連続だったという。「2週間くらい1度もこっちを見てくれなかった。自分のやっていることが届いていなかった」。カーテンコールの拍手が木村の気持ちを変えた。「すげえことをやってるんだなというのを初めて体感し、やっとスイッチが入った」。蜷川さんとの出会いがその後の俳優としての活躍につながった。

放送中のNHK大河ドラマ「どうする家康」でも、蜷川演出の洗礼を受けた俳優が何人も出演している。家康役の松本潤をはじめ、信長役の岡田准一、義元役の野村萬斎、信玄役の阿部寛、氏真役の溝端淳平、そして、石川数正役の松重豊。

87年の蜷川演出「テンペスト」で、松重はキャリバンという魚の化け物を演じた。舞台稽古を取材した時、こいのぼりの衣装を着た松重は蜷川さんのターゲットとなり、何回もダメ出しを受けていた。今ならパワハラとひとくくりされかねない光景だったけれど、16年に蜷川さんが亡くなった時、松重はブログに「忘れない」のタイトルで「罵声と灰皿に乗せて飛んできた、深い愛情」と書いていた。【林尚之】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「舞台雑話」)