NHK連続テレビ小説「ちむどんどん」(月~土曜午前8時)の語りを務めるジョン・カビラ(63)。ラジオパーソナリティーらしい軽妙なトーンで、故郷・沖縄の物語を声で彩っている。会社員からラジオパーソナリティーに転じた、異色のキャリアの持ち主でもある。ラジオの世界に身を投じて34年。ベテランはおごらず、「チームワークを楽しむのが一番」と朗らかに語る。【遠藤尚子】

★土曜フィーバー

インタビュー前にあいさつをすると、「日頃読ませていただいています」とおなじみの声で返ってきた。語りを務める朝ドラの放送が始まって早3カ月。「光栄以外の何物でもないです」と、番組参加への喜びを語る。

「キャリアの中でも、朝の連続テレビ小説のお仕事は極めてありがたく、名誉なことです。まさに“ちむどんどん”ですね」

沖縄本土復帰50年の節目に放送され、カビラもヒロイン・暢子と同じ沖縄出身。共通点は多く、物語で暢子が上京した本土復帰の年、自身も家族で東京に移住している。

「実体験として、その当時の沖縄と70年代の東京を知る人間なわけです。暢子の方が5歳上なので、親戚のお姉ちゃん、年長のいとこっていう感じですよね。(語りとして)タイムラインの色付け、みたいなことは期待されていると思います」

平日は物語に寄り添うスタンスだが、カビラの“色”がより濃く出ているのが土曜日の総集編だ。幼少期の思い出や沖縄料理をめぐるエピソードなどを織り交ぜながら、語りは実況のように展開する。土曜に限っては「アドリブさく裂」という。

「何割かは言えませんけど、かっちり台本があるところと、お任せのところがあります。多分ここだろうな、というところを楽しんでいただければ。ナレーションの醍醐味(だいごみ)です」

ある日の総集編では代名詞的フレーズ「ムムッ」を繰り出し、ネット上で話題に。

「面白いことに、ツイッターかいわいでは『(博多)華丸さん』と言われる。ちょっと待ってください、そのクレジット『(C)カビラ兄弟』ですから、と。まあ著作権も何もないんですけど。そういった細かいことに目くじら立てる人間ではないので、どうぞ遊んでくださいと思ってます(笑い)」

★J-WAVE

現在J-WAVE「~JK RADIO~UNITED TOKYO」(金曜午前6時)のナビゲーターを務める。元々はレコード会社の社員だった。

勤め先の先輩から「カビラ君、名前入れておいたからよろしくね」と言われ、半ば強制的に参加したのが、TBS主催のDJコンテスト。全くの未経験ながら、「嫌みな男ですよね。本大会で優勝しちゃったんです」と苦笑する。

「留学している際はカリフォルニアのオークランドに住んでいたんですけど、ずっとラジオは聞いてました。だからなんとなく見よう見まねで。それがキャリアのターニングポイントになるなんていう意識は、全くなかったです」

88年のJ-WAVE開局と同時にナビゲーターに転じ、以降レギュラーを持ち続けている。その間に2度の充電期間をはさみ、「だからラジオで燃え尽きることはなかったんだと思います」と振り返る。99年からの1年は米国や欧州を巡ってラジオビジネスの見識を広げ、06年からの1年半はオーストラリアのメルボルンに居を移し、プライベートを充実させた。当時平日朝の帯番組を担当し、家族との時間が持てないことが悩みだった。

「朝3時半に起きて4時過ぎぐらいに家を出る生活が月金でずっと続くと、『パパは朝は土日だけだよね』って。メルボルンでは、普通に主夫してました」

08年からラジオに復帰。「そういうこともあったので『じゃあ週1回でお願いします』と言ったら、(放送時間が)5時間半になって返ってきた」と笑う。その「JK RADIO」も、開始から14年たった。現在63歳。20年には喉のポリープ除去手術を経験し、「無理をしないこと」を心がける。

「無理をしないこと。あとは仕事を楽しませてもらうこと。チームとして仕事を楽しませてもらう。チームワークを楽しむのが一番なんじゃないですかね」

同時に局の最古参でもあり、「だから怖いんです」と自分を戒める。

「自分に用心しなきゃいけない。キャリアが長い人の前だと言えなくなるとか、カビラの前で『こういうのは言えないよね』っていうのが一番怖いです」

対話を大事にする。

「もちろん経験はあるので、その経験を分かち合う。上から目線じゃなくて、分かち合うことに心を尽くせば、そういう壁はなくなると思いたい。今日加わったような新人さんも、番組に関与したいからいるわけで、番組を少しでもいい方に変えるために、みんなここにいるんだよねと。そういう感覚をできるだけ共有したいと思うんです」

★「公平であれ」

沖縄放送協会初代会長・川平朝清氏を父に持つ。沖縄の放送文化を築いた功労者として、6月に第59回ギャラクシー賞志賀信夫賞を受賞した。父親と同じ世界に進んだが、その影響は「全くなかった」と言い切る。

「相談もしてないです。全部自分で決めて、こういう風になりました。会社を辞めて、新しくできる放送局の出演者として仕事を変えます、と」

転職に際しても「精いっぱいやりなさい」と、ひと言だけ。「重箱の隅はつつかないタイプ」という朝清氏の教えも語った。

「『フェアであれ』『公平であれ』。それだけですね。マイクロマネジメントはしないです。ありがたいことに。きっと言いたいこといっぱいあったと思うんですけど(笑い)」

★サッカー

大のサッカー通でもある。「僕、日刊スポーツさんの1面に載ったことがあるんです」と、意外な思い出も明かした。97年、フランスワールドカップ(W杯)アジア最終予選の日本対韓国戦で、カビラと弟の慈英が、勝利を飾った岡田武史監督(当時)に握手を求めるシーンだった。

「写真のキャプションに『岡田監督と関係者』って書いてあるんです。俺たち関係者か!みたいな(笑い)。慈英と私はめちゃくちゃ喜んで」

カメラマンが過去の紙面データを調べてその場で見せると、「今日一番うれしい!」と大喜びした。11月にはW杯カタール大会が控える。日本はスペイン、ドイツと強豪がそろうグループに入ったが、カビラはポジティブだ。

「いやいやいや、最高でしょう!だって、ドイツとスペインと対戦できるんですよ? 普通はベスト8以降ですよ。最高ですよ。『死の組』とか『日本終わった』とか。そんなことあり得ないです。どんだけ幸せですか。願ってもないことです」

▼「ちむどんどん」制作統括の小林大児チーフ・プロデューサー

語りには、客観的に物語の時代や背景を解説する役割と、登場人物にさりげなく寄り添う愛情が欲しいと思いました。沖縄ご出身で本土復帰を知る世代であり、語る仕事の第一人者であるカビラさんがまず思い浮かびました。「ちむどんどん」では、土曜日にその週の振り返りを放送していて、当初からカビラさんには、土曜日の放送ではよりアグレッシブでパーソナルな語りで彩ってもらえたら、とご相談しました。そんな欲張りな期待に完璧に応えてくださり、さらには沖縄の文化、食べ物、思い出への愛情あふれる自然体な語りに、毎回私たちが「ちむどんどん」させてもらっています!

◆ジョン・カビラ

1958年(昭33)11月1日、沖縄県生まれ。国際基督教大在学中、米カリフォルニア大バークレー校留学。82年にレコード会社「CBSソニー」に入社後、88年にJ-WAVE開局と同時にナビゲーターとなる。05年、04年度ギャラクシー賞「ラジオパーソナリティ賞」受賞。サッカー番組への出演多数。俳優の川平慈英は実弟。174センチ、血液型A。

◆「ちむどんどん」

106作目の朝ドラ。料理人の夢を目指して上京する沖縄生まれのヒロイン・比嘉暢子と、その家族の絆を描く。タイトルの「ちむどんどん」は沖縄の方言で、心がどきどき、ワクワクする気持ちを表す。暢子を黒島結菜が演じる。

 
 
ジョン・カビラと弟の慈英が岡田監督に握手を求める日刊スポーツ1面を飾った写真(97年撮影)
ジョン・カビラと弟の慈英が岡田監督に握手を求める日刊スポーツ1面を飾った写真(97年撮影)