プレーバック日刊スポーツ! 過去の3月9日付紙面を振り返ります。1997年の芸能面(東京版)は芸術家・池田満寿夫さん死去のニュースでした。

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 国際的な版画家で芥川賞作家、映画監督として多彩な活動で知られる池田満寿夫(いけだ・ますお)さんが8日午前0時29分、急性心不全のため静岡県熱海市内の病院で死去した。63歳。池田さんは同日午前0時すぎ、長年同居するバイオリニスト佐藤陽子さん(47)の目前で倒れ、意識が戻らぬまま息を引き取った。昨年12月に脳梗塞(こうそく)で入院したが回復に向かい、来年故郷で開かれる長野五輪の成功に尽力していた。

「満寿夫が死んじゃった。信じられる?」。佐藤さんは親しい友人に声を震わせ、涙ながらに最愛の人の死を伝えた。一人じゃなく、作家の桐島洋子さんら何人にも電話した。懸命に平常心を保とうとしたが「何も考えることができない」と、皆に繰り返したという。佐藤さんは、遺体が安置された熱海市内の医王寺(いおうじ)で仮通夜を前に会見した。「穏やかで優しい人だった。もっと絵がかきたかっただろうに」と遠くを見つめるような目で振り返ったあと、「悪い冗談だと思っています」。天を仰いだきり、涙で言葉が続かなかった。

 池田さんの死はあまりにも突然の出来事だった。外出していた佐藤さんが8日午前0時ごろ熱海市内の自宅に戻ったところ、池田さんが出迎えた。そのとき、飼い犬8匹も一斉に飛び出してきた。同時刻、伊豆地方の群発地震が起きていた。池田さんは地震に驚き飛び出した犬に足を絡まれ、前のめりに転倒した。佐藤さんによると、「何かに引っ掛かりながら崩れ落ちた感じで、尋常な倒れ方ではなかった」という。救急車を呼び、近くの病院に運んだ。が、再び意識を取り戻すことなく、息を引き取った。

池田さんは昨年12月に脳梗塞で倒れ入院しており、体調は芳しくなかった。今年になって回復に向かい、4月から多摩美大絵画科版画専攻の専任教授に就任することも楽しみにしていたという。

 二人は相思相愛だった。1977年(昭52)、雑誌の対談で知り合った。79年、池田さんの芥川賞受賞作で監督を務めた映画「エーゲ海に捧ぐ」の音楽を佐藤さんが担当し、急接近した。既成の芸術論に挑戦し、エロスを追究する池田さんを、佐藤さんがだれよりも理解した。佐藤さんは「18年一緒にいた。普通の夫婦の3倍一緒にいましたけど、それでも短かった。人間的にも夫としても申し分のない人だった。彼から真心を学んだ」と話した。

 80年1月には高橋三千綱氏、戸川昌子さんらが発起人となり結婚披露パーティーが開かれた。しかし表面上のおしどりぶりとは裏腹に、二人は戸籍上夫婦ではなかった。池田さんは21歳のときに10歳年上の女性と結婚。その女性とは3年で破局したものの、熱心な宗教家で離婚は一貫して拒否されている。事情をよく知る関係者は「もう無関係ですが、籍は抜けていないと思う」と話した。

池田さんのエッセーには必ず「陽子さん」が登場し、佐藤さんのコンサートの最前列にはいつも池田さんの姿があった。「突然倒れて、お互い“ただいま”“おかえり”も言えなかった」。佐藤さんは悔やんだ。最後に交わした言葉は7日夕方の電話で、池田さんが「デザインに使うラベルがないんだけど」と尋ね、佐藤さんが「あそこにありますよ」と答えた、何気ない“夫婦”の会話だった。倒れてから、わずか30分足らずで逝(い)ってしまった池田さんの遺体が自宅に戻ってくると、佐藤さんはずっと添い寝をした。駆け付けた友人たちは、本当の夫婦以上の愛に涙を流した。

 

◆池田満寿夫(いけだ・ますお) 本名同じ。1934年(昭9)2月23日、旧満州(現中国東北部)・奉天生まれ。県立長野北高(現長野高)卒。油絵で東京芸大を3度受験するも失敗。街頭で似顔絵がきをしながら版画を学ぶ。66年にベネチア・ビエンナーレ(美術展)で国際版画大賞を受賞し国際的に脚光を浴びた。版画の代表作は「動物の婚礼」「タエコの朝食」など。多才で、77年に小説「エーゲ海に捧ぐ」で、第77回芥川賞を受賞した。79年に同小説を自ら監督して映画化、カンヌ映画祭に出品。81年には映画「窓からローマが見える」を製作。83年からは陶芸にも取り組み、写楽の研究や写真家、舞台監督としても活躍。今年4月、長野市に池田満寿夫美術館が開館予定。雑誌の対談で出会ったバイオリニストの佐藤陽子さん(47)と80年1月に結婚披露宴を行った(未入籍)。

※記録と表記は当時のもの