東映会長の岡田裕介さんが先日亡くなった。71歳。プロデュース作「いのちの停車場」の公開を来年に控え、急性大動脈解離による文字通りの急死だった。

裕介さんは父・茂さん(享年87)を継ぐ形で東映の社長、会長となったので、そこにはいつも「2世」のイメージが付きまとった。

裕介さんが40歳そこそこで東映撮影所長になった頃、当時東映社長だった父・茂さんに銀座のクラブに呼ばれたことがある。そこには裕介さんと同世代の映画記者が4、5人居て、「裕介さんを囲む会」の雰囲気だった。ちょっと若めの私もその範囲ということで声をかけられたのだ。

映画界の「ドン」であった茂さんが酒をついで回り、「裕介と懇意にしてやってくれ」といった趣旨のことを1人1人にささやいた。見るからに押し出しがいい茂さんは、「俳優あがり」であまりはっきりものを言わない裕介さんが心配でならなかったのだと思う。居心地は決してよくなかっだろうに、裕介さんは「僕のやり方は違う」という思いを押し殺し、父の気持ちや立場をおもんばかって笑顔で応対していた。ギラギラした茂さんとは違う柔軟性と許容力に、違った意味の「大きさ」を感じた。

実録やくざやエログロと、時代に即した明解な路線で成功した父と違い、裕介さんは多様化で先の見えない難しい時代にかじ取りをすることになった。そこで生かされたのがあの柔軟性だった。父が心配したつかみどころのないキャラクターはむしろ武器になったのではないかと思う。

東映入社前の80年にはプロデューサーとして関わった「動乱」で、高倉健と吉永小百合の初共演をしれっと成し遂げている。

「探偵はBARにいる」(11年)が大ヒットし、日刊スポーツ映画大賞の石原裕次郎賞を受賞した時は「社内では僕だけがこの企画に反対で、絶対にヒットしないと思っていたんだけどね」と異例の授賞スピーチをした。裏を返せば社長としてこの作品を容認したわけで、むしろ懐の深さを感じさせた。

配給先がなかなか決まらなかった角川春樹氏の最後の監督作品「みをつくし料理帖」(20年)では、交渉に訪れた角川氏に対して「料理をテーマにした映画は当たらない。岡田家では代々食べ物の映画はやらないことにしている」とけむに巻いた。が、日を置かずに引き受ける。実は製作スタッフのただならぬ熱意に触れての判断だった。

「可能性」には耳を傾け、つぶさずに生かす。ひょうひょうとした人柄は目に見えないところで映画界に多大な貢献をしてきたのだと思う。【相原斎】