歌手で俳優の西郷輝彦さん(本名・今川盛揮=いまがわ・せいき)が20日午前9時41分、前立腺がんのため都内の病院で亡くなった。75歳だった。

西郷輝彦さん三女の今川宇宙「酸素マスク越しに手の甲にキス」亡くなる前日の様子明かす>>

11年に前立腺がんと診断され、全摘出手術を受けたが17年に再発。昨年4月にはコロナ禍の中「もう少しだけ、好きな仕事をさせて欲しい」と望みをかけてオーストラリアに渡航し、日本で未承認の最先端治療を受けていた。葬儀は近親者のみで営む。

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鹿児島市で生まれた。兄2人姉1人の4人兄姉の末っ子だった。土地柄か生粋の硬派だった。母の実家は飫肥(おび)藩(現・宮崎県日南市)の家老職の家柄で、幼少から芸事に親しんだ。長兄は地元でジャズドラマーとして活動していた。その影響で洋楽を聴き、「歌手になりたい」と夢見るようになった。

鹿児島商に進学した1962年(昭37)、野球部が夏の甲子園に出場。応援団に交じって大阪に行き、ジャス喫茶に入り浸った。初めて聴く生演奏に感動した。夢が一層強くなった。

「歌手になる」と母に告げ家出した。高校は中退した。大阪でコンテストを受けるが落選。途方に暮れたが、その関係でバンドボーイの職を得た。曲折を経て、63年に設立したばかりの日本クラウンレコードの専属新人歌手第1号として、64年2月に「君だけを」でデビューした。この年の日本レコード大賞新人賞を都はるみとともに受賞した。長身に甘いマスク。人気に火がついた。

66年に作曲家の浜口庫之助氏らとスペイン・マドリードを訪れた。4日間、劇場でフラメンコを見続けた。帰国後、完成したのが「星のフラメンコ」。西郷は不動の人気を得た。

橋幸夫、舟木一夫と御三家として活躍した。しかし時代は変わり、NHK紅白歌合戦の11年連続出場を逃した。悔しくて「自分から降りたんだ」と言い聞かせた。周りから1人、2人と去っていった。

転機が訪れた。フジテレビ系ドラマ「どてらい男(やつ)」(73年)の主演に抜てきされた。原作・脚本の花登筐氏は「(西郷を見て)私はまるで金鉱脈を掘り当てたヤマ師のごとき心境だった」と話した。高視聴率を得て、舞台や映画にもなった。主役の猛造(モーやん)と一体に見られた。75年のTBS系時代劇「江戸を斬る」の遠山金四郎役もはまり役としてシリーズ化された。

森繁久弥さんと出会って、俳優として一層開花した。「どてらい男」の舞台中、次の舞台を控えた森繁さんが劇場を訪れた。あいさつに訪れると「何者だ君は」と言われた。「歌手です」と答えると「それが何の役に立つ」と言われた。そのひと言で、舞台の厳しさを痛感したという。以後、森繁さんとは師弟関係として共演した。

歌手を目指した時から何度も壁を乗り越えた。芸名は郷土の偉人・西郷隆盛に由来する。西郷隆盛の言葉の「自分を甘やかしてはいけない」の人生だった。【笹森文彦】

 

◆西郷輝彦(さいごう・てるひこ、本名・今川盛揮=いまがわ・せいき)1947年(昭22)2月5日、鹿児島県生まれ。64年に「君だけを」で歌手デビューし、同曲と「十七才のこの胸に」で日本レコード大賞新人賞を受賞。同名映画で銀幕デビュー。66年には「星のフラメンコ」がリリースから2カ月で50万枚を売り上げる大ヒット。73年のフジテレビ系ドラマ「どてらい男」に主演し、俳優業に挑戦。デビュー30周年を迎えた94年に「別れの条件」で歌手活動を本格再開。