昨年84歳で亡くなった落語家笑福亭仁鶴さんの命日にあたる17日、大阪・なんばグランド花月で、一周忌追善落語会が開かれ、発起人になる吉本興業の大崎洋会長(69)、一番弟子の笑福亭仁智(70)らが思い出話を語った。

大崎会長は、“えげつない時代”の“えげつない会社”にいた“えげつないスター”を回顧した。

休演になると会場で暴動騒ぎにもなったという高座人気に加え、テレビ・ラジオ・映画にCMと、落語家の枠をはるかに飛び越す“えげつない”スーパースター。「吉本中興の祖」と言われた、それが仁鶴さんだった。

大崎会長は「44年、45年前、入社して最初についたのが仁鶴さんだった」と言い、現場マネジャーながら弟子のように着物もたためず、草履の手入れもできず、迎えに行って「隆子姫(夫人)の赤だしみそ汁飲むだけ」。加えて車好きで知られた仁鶴さんは、ロールスロイスなどの外車を自ら運転したため、弟子は助手席で「僕(大崎会長)は後部席」と、苦笑しながら振り返った。

そんな仁鶴さんはその頃、のどにポリープを患っていた。大崎会長いわく「お医者さんが言うには、2カ月休んで手術したらきちっと治る言われたけど、えげつない会社ですから、ブツブツ(ポリープを)ちょっとずつ(切除)でね」と、闘病しつつの芸能生活だったことを明かした。

舞台では姿を見せるだけで拍手、口を開けば波打つ爆笑の仁鶴さんだったが、普段は口数が少なかった。

大崎会長は「それでも、忘れられへん言葉があるんです。『(のどの手術が不完全で)思ってるとこのあと1枚、2枚上から声が出んと僕の考えてる落語にならん』とね、言ってました」。売れっ子ゆえのジレンマも垣間見たと明かした。

大崎会長はもともと、中学時代に、仁鶴さんのラジオ大阪番組を「エロ仁鶴を布団に潜って聴いていた」ファンだった。自らが吉本へ入り、仁鶴さんの現場マネジャーを務めた感動はいまだ新鮮なようで、仁鶴さんから「笑いというのは、愛がベースにないと成立せえへん」と言われた言葉を胸に年を重ね「今でも受け継がれてる」と語った。

今回の一周忌興行は、当初は予定になかったが、大崎会長の肝いりで実現。興行には、抽選による無料招待客約800人が集まり、大崎会長は「仁鶴さんを愛してくれたお客さま、仁鶴さんが愛した、できの悪い弟子っ子たちに感謝したい。いや、来年は有料でやりましょか」とジョークもまじえて感謝の思いを表現した。

子供がいなかった仁鶴さんは、弟子を実子のようにかわいがり、鍛えてきただけに、一番弟子の仁智は「ご遺族の意向で、当初はお別れの会とか予定になかったんですが、大崎会長の進言で、特別招待公演ということで実現しました」と、開催への経緯を説明。

仁智は「大阪落語家を全国に知らしめたパイオニア」と師匠をしのび、仁鶴さんの言葉を借りて「おだやかに、なごやかに、派手すぎず、にぎやかに執り行いたい」と言い、進行した。