元プロレスラーで参議院議員も務めたアントニオ猪木さんが1日午前7時40分、都内の自宅で心不全のため亡くなった。79歳だった。

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新日本プロレス旗揚げからの17年間、妻として猪木さんを支えたのが女優の倍賞美津子(75)だった。

千恵子(81)との倍賞姉妹は、今で言えば広瀬アリス・すず姉妹のような存在だったので、猪木さんとの「1億円挙式」は文字通りのトップニュースだった。

「寅さん」でおなじみの姉が庶民的なイメージなら、今村昌平、黒澤明ら多くの巨匠に重用された美津子は対照的にグラマラスで「情念の女」の印象が強く、夫妻そろってあふれるようなエネルギーを感じさせた。

倍賞はマスコミに私生活のことはほとんど語っていないが、猪木への愛はその行動が示している。71年11月の挙式から2カ月余りの72年1月に新日旗揚げ。宣伝カーのナレーションを吹き込んだり、融資先にも足を運ぶなど、内助の功もエネルギッシュだった。猪木さんもこれに応えるように「彼女は明るくて、人を喜ばせることが上手だった。人がいるとワーッと楽しく振る舞い、周りにいる人の心が明るくなる」と語り、76年6月のムハマド・アリとの「格闘技世界一決定戦」に突き進んでいく。

この一戦で猪木さんの存在は世界的に知られるようになる。その勢いで行われた半年後のパキスタン遠征にも倍賞は同行した。同国の英雄アクラム・ペールワンとの試合では、死闘の末アームロックでギブアップしないペールワンの腕を脱臼させてしまう。

暴動寸前のような会場で倍賞は「新間(寿・新日専務=当時)さん、私はいいからアントンを頼むわ」と肝の据わったところをみせた。猪木さんがほれ込んだきっぷの良さだった。

88年、結婚17年目の離婚もメディアの注目を集めた。原因は猪木さんの不倫騒動だったが、倍賞の方にも後に萩原健一との熱愛が伝えられた。猪木さんも倍賞も非難めいたことはいっさい口にしなかった。夫婦関係にはピリオドを打っても、世界を舞台に戦った同志としての絆は切れなかった。

倍賞の弟鉄夫さん(17年死去)は長年新日のリングアナを務め、猪木事務所社長にも就いた。夫妻の娘で元女優の寛子さんと当時の夫サイモン・ケリー氏(新日社長=当時)のはからいで、倍賞は03年5月の「新日30周年記念東京ドーム大会」にサプライズゲストとして登場。猪木さんとともに「1、2、3、ダー!」を披露して、その絆を印象づけた。【相原斎】

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