俳優でエッセイストの吉行和子さんが2日、肺炎のため都内の病院で亡くなった。90歳だった。
吉行さんを取材した中で、どうしても忘れられないのが、2013年(平25)の山田洋次監督(93)の映画「東京家族」を巡る、一連の出来事だ。吉行さんは劇中で、主演の橋爪功(83)演じる平山周吉の妻とみこを演じたが…当初は2人ともキャスティングされていなかったのである。
「東京家族」は、11年3月11日の東日本大震災発生を受けて、製作・配給の松竹が同4月14日に製作延期を発表。翌12年2月3日に、仕切り直す形で同3月1日クランクイン、翌13年1月公開予定と発表した。発表にあたって取材の場が設けられたが、仙台市出身で被災地支援を続けていた主演の菅原文太さんと、早期の撮影を望む山田監督との間に見解の相違が生まれ、出演が白紙となったことが明かされた。
さらに、とみこ役の市原悦子さんが、S状結腸腫瘍で入院。長女の金井滋子役の室井滋(66)が、他の仕事との日程調整が付かず降板することも、立て続けに明かされた。撮影延期が、主人公の夫とその妻、長女を演じる主要俳優3人の降板という、異例の事態を招いた。代役として橋爪、吉行さんと中嶋朋子(54)がキャスティングされた。周吉は菅原さんをイメージして造船所で働いた男の設定だったが、橋爪に代わった段階で元校長先生となった。
菅原さんと山田監督との間に見解の相違が生じたこと、出演が白紙となったことは耳にしており、一部週刊誌でも報じられていた。その中、最も驚かされたのが、市原さんの入院から、わずか2日後に吉行さんへとバトンタッチされたことだった。市原さんは3カ月強に及ぶ「東京家族」の撮影に備えて、13年1月末に受けた健康診断でポリープが発見され、同2月1日に入院。医師の初見では、順調にいけば同20日にも退院できる見込みだったが、当時76歳と高齢だったことから即時の復帰は無理と判断された。それからわずか2日後の3日に、仕切り直しの発表がなされた。
山田監督は、13年の年始に10日ほどかけて脚本を書き直し、セリフや設定に震災の要素を盛り込み、12年5月の日本を舞台として小津安二郎監督の名作「東京物語」をモチーフに、より複雑化した現代の親子関係を描いた。「不況に重ねて大きな震災も経験し、苦悩する日本の観客が大きな共感の笑いと涙で迎えてくれるような作品にしたい」と語った。夫婦役が代わったことについては「いいものを作れっていうことだね」と、橋爪と吉行さんに期待した。
映画が完成し、試写が始まる前の段階で、主要キャスト3人が降板した影響が、どう出るのか? という声は少なからずあった。それが、いざ試写が始まると、「最初からキャスティングされているようだった」などと評価の声が高まっていった。
そんな中、13年1月19日に初日を迎え、都内で舞台あいさつが行われた。その壇上で、吉行さんは「本当に、うれしい初日になりました。試写で見た時は、緊張のあまり、あまりよく分からなかったんですね。私(が演じた、とみこ)が死んでから、やっと、ホッとして涙を流しながら見たんですけれど」と口にした。「今日から公開されたので、私も客席に座って、ゆっくり見てみたいなと、楽しみにしています」とも言い、客席を笑わせたが、代役として作品を背負った不安と戦っていた心中をかいま見せた。
橋爪も、撮影を振り返り「クランクアップの日、吉行さんがスーッと監督のところにいらして、2人で抱き合っちゃった。ハグですよ。そして、耳元で何とかかんとか、おっしゃっていたのを目撃したんですよ」と口にした。その上で「監督が感動していらしたから、吉行さんに『何て言ったんですか?』と聞いたら、言わないって…僕はどこかで嫉妬している。幾ら監督でも、人の嫁を取ったらいかんでしょう」と言い、笑った。
吉行さんは「何を言ったか、墓場まで持っていきます。そういう展開になると思わなかった」と冗談めかして言い、満面の笑みを浮かべたが、その流れで口にした言葉こそ、本音だっただろう。
「これが最後だと思った。ずっと緊張していたんですよ…山田監督は初めてですし。(57年の「アンネの日記」に主演し初舞台を踏んでから56年と、俳優を)本当に長いことやっているにも関わらず、何だか緊張が激しかった。これで終わったという喜びと、終わりたくないという気持ちで、何かささやいたらしい」
「終わりたくない」と口にした吉行さんの言葉は、現実のものとなった。14年9月に、山田監督が「男はつらいよ」シリーズ終了後、21年ぶりに製作する本格的な喜劇映画「家族はつらいよ」の製作が発表された。同監督が「信頼関係を持つ人たちと一緒に仕事できることは、とても楽しい。作り上げたアンサンブル(連携)を逃すのはもったいなかった」という思いから「東京家族」で家族を演じた8人を再結集させた。橋爪演じる平田家の父周造と吉行さん演じる母富子の、熟年離婚騒動に揺れる一家の喜怒哀楽を描いた映画は、16年3月に公開された。
「家族はつらいよ」も、第1作だけでは終わらなかった。17年5月には「-2」が公開。熟年離婚を乗り越えた周造が、運転免許を返上させようとする子どもたちとせめぎ合う姿を描く中で当時、問題となっている無縁社会とも向き合った。18年5月には第3弾「妻よ薔薇のように-」が公開。西村まさ彦(64)演じる平田家の長男・幸之助が、家事の途中で居眠りして泥棒に入られた上、ヘソクリを盗まれたことに激怒し「俺の稼いだ金をピンハネをして、へそくりをしていたのか!」などと、夏川結衣(57)演じる妻史枝をののしったことで、史枝が家出して揺れる家族を描いた。
「東京家族」から「家族はつらいよ」シリーズへと派生した4本の映画で、吉行さん一貫して一家の母を演じ続けた。スタートはピンチヒッターだったが、途中からは吉行さんでなければ、ならないところまで役を生きた。だからこそ、人生に幕を下ろす間際まで、監督、演出家から引く手あまただったのだろう。【村上幸将】



