コント55号で国民的人気者だったコメディアンで俳優の坂上二郎(さかがみ・じろう)さん(本名同じ)が脳梗塞再発のため10日午前9時40分、栃木県那須塩原市の病院で亡くなった。76歳だった。萩本欽一(69)とのコント55号は型破りな笑いでブームを巻き起こした。昨年8月に脳梗塞で倒れ療養していた。通夜・告別式は行わず、近親者のみで家族葬を行う。この日会見した萩本は「コント55号は幕引きです。ありがとうしかない」と目に涙を浮かべた。
突然の死だった。栃木県那須塩原市のケア付き高齢者用マンションで療養していた二郎さんは10日朝まで元気な様子だった。しかし、午前9時ごろに体調が急変し、心肺停止の状態となった。救急車で近くの病院に搬送されたが、同40分に死亡が確認された。妻瑶子さん(75)だけが立ち会った。
脳梗塞で療養生活を送っていた二郎さんは復帰をあきらめなかった。昨年8月13日、栃木県内の自宅で倒れて頭を強打。検査した結果、脳梗塞の再発と判明した。03年9月にゴルフ中に脳梗塞で倒れ、左半身が不自由となったが、懸命のリハビリで翌04年に復帰。09年9月「したまちコメディ映画祭」セレモニーに萩本と出演したのがコント55号最後のツーショットだった。
昨年の再発で右半身も不自由になった。今年1月の明治座公演を前に9月30日に見舞った萩本に「稽古始まったかい。大丈夫、いけるよ」と不自由な声で出演を訴えた。足腰は立たなかったが、得意のギャグ「飛びます」のしぐさも見せた。12月に出演を最終確認するため萩本が再び見舞ったのが最後の対面だった。
この日、仕事先の富山から帰京し羽田空港で会見した萩本は当時の模様を話した。「『飛びます』はできないだろう」と話したところ、寝ていた二郎さんが起き上がって「飛べません」とギャグで返したという。
萩本
これで「大丈夫だな」と思いました。その後、二郎さんが「欽ちゃん」って手を出して。「二郎さん、握手かよ。泣けるからよせよ」って。二郎さんはニコニコ笑って、おれも絶句しちゃって「泣かせるなよ、ずい分温かい手じゃないか」って。これが二郎さんとの最後になっちゃった。二郎さんと握手したのはこれが初めてだったんだよ。
当時は萩本はこの握手を二郎さんからの「頑張ります」とのメッセージだと受け取っていた。
萩本
カッコいいキレイなことをしない人だった。悲しいときでもギャグを言う人でしたから。今思うと、あの握手は「さよなら」だったんだね。
結局、出演は見送られ、本番は以前録音した声が流された。「大丈夫だよ」「ありがたいことです」との二郎さんの声に客席から笑いが起こった。この公演をコント55号最後の舞台と決めていた萩本はその笑い声を録音し、病床に届けた。
下積みが長かった。歌手を目指して19歳で鹿児島から上京。歌手の付き人を経て漫才師になったが、売れなかった。浅草のストリップ劇場「フランス座」でコメディアンをしていた時に萩本と出会い、66年にコント55号を結成。舞台をところ狭しと駆け回るコントで注目され、萩本の突っ込みを生真面目に受け止める「チッコイ目の二郎さん」のお人よしキャラで人気となった。テレビの冠番組は高視聴率を記録。「飛びます、飛びます」のギャグは二郎さんの代名詞ともなった。
長女有沙美希はSKDから女優となり父子共演しており、長男と次女も一時芸能活動をした。05年に那須塩原市に開校した「那須お笑い学校」の名誉校長を務め、そのころに東京の自宅を引き払い、栃木県に移住。昨年11月に高齢者用マンションに移り「再び舞台に」とリハビリを続けたが、願いはかなわなかった。
◆坂上二郎(さかがみ・じろう)1934年(昭9)4月16日、鹿児島市生まれ。中学卒業後、鹿児島市の百貨店に勤務したが、52年にNHK「のど自慢コンクール」に優勝したのを機に上京。66年コント55号を結成、コンビ名は王貞治氏の本塁打新記録55本にちなんで付けられた。60年代後半からテレビ史に残る笑いで高視聴率を記録した。クイズ番組「ぴったし
カン・カン」にも長く出演し、歌手としても74年「学校の先生」がヒット。主な出演作はドラマ「荒野の素浪人」映画「漂流」オペレッタ「こうもり」など。




