福田淳一・前財務事務次官のセクハラを、テレビ朝日の女性記者が週刊新潮を通じて世間に「告発」した問題。幕引きを急ぎたいのだろうか、財務省が、本人が否定しているにもかかわらずセクハラを認定し、退職金を141万円だけ減額、追加処分もしないと、大型連休前に発表した。

 政府は幕引きと思っているかもしれないが、取材する側とされる側で発生するセクハラの経緯が表舞台に現れ、焦点が集まる結果になった。野田聖子総務相もメディアの女性から話を聴き、実態をつかむ意向を示している。もちろん、セクハラはメディアの世界のことだけではないのだが。

 当方も今回の問題をきっかけに、これまでの取材活動の中で、広い意味での取材対象者から受けた「いくつかの経験」を思い出した。国会での取材中にも、毎日「セクハラ」ワードが飛び交う環境に身を置き、「そういえば、あれはいやだったなあ」などと、考えることがあった。面識がない人に突然名刺を渡され、連絡を強要された。目の前に座ると、隣に座って取材するよう求められた。つけていた香水に妙に反応され、困惑したこともある。女性であることが、「武器」のように言われたこともある。そんな目で見られているのかと、がっかりした覚えもある。

 ただ、こうして文字に起こしながらも、何となくぼかしながら書いていることに、書きながら気付いている。自分でもあまり思い出したくないのだろう。書けない、書きたくない体験だってある。

 取材相手に怒られたり、話をしてもらえなかったりという経験は、たくさんある。そんな時は、上司や同僚にも報告する。でも、セクハラ的な行為で嫌だと感じたことがあっても、周囲の人に話したことはほとんどない。恥ずかしさに加え、周囲の人間が、どんな反応をするか分からないこともあるからだ。

 仕事をしていると、いいことばかりではないのは、男女ともに変わらない。でも女子の場合は、性別を理由に理不尽な思いをすることもある。ひどい場合は今回のように、社会的にもさらされる。なんだかなあというのが本心だ。

 4年前、東京都議会で「セクハラやじ」が問題になった。当事者だった塩村文夏さんにインタビューした時、「もともとセクハラはだめだと言われながら、あった。今回の問題で『だめなんだ』ということが再認識された」と、自身へのセクハラが、社会に与えた影響の大きさを述べていた。「2020年東京五輪・パラリンピックに向け、日本の成熟度を上げるためにもよかった」とも聞いた。

 塩村さんの意見に基づけば、今回もセクハラはだめなんだ、ということが再認識される機会になったと思う。でも、この「再認識」行為が今まで何回、繰り返されてきたのだろう。そう考えると、個人的にはセクハラは恐らくなくならないと思う。ちょっとした行為ながら、相手を傷つけたりムカつかせたりすることに、意外に気付いていないケースは多いと思う。突き詰めれば、その人が持つ言葉のセンスというか、言葉に対する感覚次第で、セクハラになるか、ならないか、道は分かれる気がする。

 今後も、「セクハラはだめなんだという再認識行為」は、続くのかも知れない。地道に「再認識」を繰り返した先に、再認識行為が必要なくなる時が来るといいな、と思う。