東日本大震災の発生から、11日で丸7年を迎える。日刊スポーツでは「被災地の7年~忘れない3・11」と題し、震災特集を連載する。第1回は、大津波で児童74人、教職員10人が死亡、行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校の遺族で常に先頭に立ってきた、佐藤和隆さん(51)を取材した。小6だった三男雄樹くん(当時12)を亡くし、来月26日には宮城県・石巻市を相手取った控訴審の判決を迎える。
横殴りの雨が佐藤さんの服をバチバチと鳴らす。あの日、児童をのみ込んだ北上川が低気圧にうねりを上げた。5日午後2時、気温は5度でも体感温度はさらに寒い。年に何度も来ない記者を案内するため大川小を歩いた。
傘は差さない。全身がずぶぬれになっても息子を奪った大津波や寒さと、比べる余地もなく、嵐を受け止めた。
大川小から海側約200メートルの田んぼで遺体で発見された雄樹くんは生きていれば今年9月、20歳になる。成人した息子を想像して、と聞かれても「雄樹の友達が車を運転しているのを見て驚く。そういう年なんだなと。でも雄樹が大人になった姿は想像できないな」。無理もない。息子の時はあの日で止まっている。
震災前日、小学校卒業に合わせて手紙をもらった。「12年間、育ててくれてありがとう。言うことを聞かなくてめいわくかけてきたけど。心の中では感謝していました」。早すぎる遺言になった。
今年のカレンダーに目をやる。2011年の曜日とずれていても容易に、7年前の記憶がよみがえった。3月6日午前、石巻市スポーツ少年団のマラソン大会、午後は子ども会の6年生を送る会でボウリングをした。その夜、打ち上げの焼き肉が最後の外食となった。
悪天候だから大川小まで送迎していた7~10日。なぜか11日だけ「今日は自転車で行くよ」と言われた。気には留めなかった。午後2時46分、震度6強が襲っても「まだ学校にいる。先生と山さ逃げてっぺ」と安心し、他の家族ばかりを心配した。
北上川の堤防が決壊し、大川小にたどり着いたのは翌朝8時ごろ。泥やがれきばかりで、子どもたちの姿はない。当然だ。避難しているに決まっている。移動した可能性のある別の集落へ歩き始めると、市職員に出くわした。「子どもたちは?」と聞くと、彼らは横に首を振った。
小学校に引き返し、同じ現場に目を落とすと、泥が人の形に見えた。児童たちだった。
天地がひっくり返っても、よみがえらない息子が生きた証しを、「教訓」という形で未来に残す-。その禅問答は震災から7年たっても、答えにたどり着かない。
教員たちは大津波が差し迫る中、児童を50分間もグラウンドに待機させた後、裏山ではなく津波が来る方向に避難を開始した。震災直後には、これを「天災だから」で片付けられそうになった。冗談じゃない。「74人の子どもが同時に死んだんだぞ」。「人災」をただす遺族の戦いが始まった。
11年の石巻市教委の説明会では生存児童の聞き取りメモが破棄され、唯一生存する男性A教諭もそれを最後に証言をやめた。文部科学省の当時官房長だった前川喜平前事務次官が設置を主導した事故検証委員会(12年12月設置)では、事故原因を「避難が遅れたため」と結論づけ、あきれるしかなかった。
14年3月、最後の手段と、裁判に踏み切った。16年10月、勝訴するも、宮城県・石巻市が即刻、控訴。今に至る。
批判、陰口は覚悟の上も、公判が近づけば、胃が痛む。「勝訴って何だろうか」とも正直思う。賠償金14億円ばかりが強調された1審の勝訴。すぐにむなしさが襲い、涙がほおを伝った。
はいつくばるように一進一退、遺族が努力を積み重ねた7年。避難計画、教委と学校の関係、震災当時に近隣にいた生存者の聞き込みなど、事細かに立証し、「仕方なかった命」が「救えた命」と徐々に姿を変えてきた。
来月26日、控訴審の判決が出たら、林芳正文科相に言いたい。「大川小だけではない。いじめもそう。教育現場の隠蔽(いんぺい)体質を変えるため、運輸安全委員会のような独立機関をつくってほしい」と訴えた。
「最高裁まで覚悟はしているよ」。緊張の糸が切れたら、もう走れないと分かっているから、あえてそう言った。【三須一紀】