映画「男はつらいよ」の22年ぶりのシリーズ最新作が27日から、全国で劇場公開される。1969年(昭44)の第1作公開から50年。寅さんは亡くなり、学生運動もベトナム戦争も終わって、沖縄は日本に還ってきた。時代が移り、昭和史の1ページにとじ込まれた「1969年の車寅次郎」を改めて見返すと、人々に愛された国民的映画の別の顔が見えてくる。日本女子大教授の成田龍一さんが分析した。

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「男はつらいよ」は、東京の東端、葛飾区柴又の門前町を舞台にした「人情喜劇」。劇中、葛飾区は、東京の「下町」として描かれますが、都心から離れた千葉県境に位置した近郊の行楽地であり、戦後も田畑が広がる農村地帯でした。

しかし、戦後の葛飾は、人の出入りが激しく、町工場や商店、住宅も増加し、新たな下町的コミュニティーを形成していきます。60年代後半には、「新興の下町」として認識されるようになっていました。

明治時代に東京市ができたころは、神田や日本橋、上野や浅草、本所、深川あたりが下町でした。関東大震災後は向島、城東まで広がり、戦後の高度成長期には、葛飾、江戸川区といった荒川の東側にまで拡大していったのです。

東京の街の歴史は、山の手への「西部開拓史」として語られることが多いけれど東への流れに注目したところが、この作品の特徴だと思います。

主人公の寅次郎は柴又に生まれ育ち、江戸前のべらんめぇ口調ですが「江戸っ子」ではありません。神田や日本橋生まれの「江戸っ子」は、東京の正統派を自任する、エスタブリッシュメントですが、旧農村地帯出身の寅次郎は違います。山田洋次監督は、エスタブリッシュメントではないが、土地に愛着と誇りを持って生きる東京の周縁地域に生きる庶民と、その家族を描きたかったのでしょう。

例えば、寅次郎の妹、さくらと博夫婦です。60年代、町工場で働く地方出身の青年が、地元の娘と結婚して定住するというのは、下町のひとつの家族モデルであり、さくらには、当時の下町女性と地方出身の青年の物語が見事に描かれています。戦前までの江戸っ子でも、山の手のインテリでもない人たちが家族をなし、旧農村地帯の下町的な地域社会で織りなす物語なのです。山田監督は、葛飾・柴又こそ、60年代東京の庶民の家族像を描く舞台として、リアリティーがある場所だと考えたのだと思います。

◆成田龍一(なりた・りゅういち) 1951年(昭26)生まれ、大阪市出身。日本女子大教授。専門は日本近現代史、都市社会史。映画を手がかりに都市の発展過程を読み取る研究も手がける。主な著書に「近現代日本史との対話」「東京都の百年」など。