歌手千昌夫(73)の実家は、岩手県陸前高田市にある。11年3月11日、大津波が町を襲った。母みどりさんは間一髪で救出されたが、数多くの同級生や知り合いが亡くなった。その後、千と暮らした母は昨年8月に、99歳で天寿を全うした。千は「頑張ったね」とねぎらったが、新型コロナウイルス感染拡大のため、自らの手で遺骨を故郷に届けることはできなかった。

あの日からの10年。爪痕はコロナ禍の今も残る。千は「風化させないことが使命」と決意している。

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千の実家は海岸線から約9キロ離れていた。7万本の松が見事な「高田松原」がかなたに見えた。父は小学3年の時に亡くなった。「星影のワルツ」がヒットし、母みどりさんのためにと建て直した。畳と土間と瓦屋根の家を、新しい素材で再現した。「あの健太郎(本名)がね」と、近所の人は感心した。

あの日、陸前高田市を震度6弱の地震が襲った。兄夫婦と暮らすみどりさん(当時90)は、揺れを警戒して外の車内に避難した。骨粗しょう症で股関節をボルトで留めていた。兄は外出中で、兄嫁は親族の安否確認で車を離れた。がれきを巻き込み津波が迫った。近所の人がみどりさんを発見し、間一髪で連れ出した。死者、行方不明者は2000人に上った。7万本の松は消えていた。

母と、同居する兄夫婦が、高台のお寺に避難していると知人からの連絡で知ったのは4日後だった。千は「自分たちのことだけ考えれば本当に良かったと思いました。でも、隣近所の人や知り合いは数多く亡くなった。言葉にならなかった」と振り返った。

みどりさんは、かつて千の横浜市内の自宅で暮らしていた。「最期は故郷で」という希望で、10年春に兄夫婦が住む実家に戻っていた。「帰って10カ月後の震災だった。町の復興も家の修理も時間がかかる。そばで過ごさせたい」と、再び自宅に連れて戻った。

千は陸前高田はもちろん東北各地の避難所を精力的に慰問した。長期の旅になった。みどりさんの話し相手にとインコを飼った。「寂しくないようにと思ってね。でも僕の方がはまっちゃって、今では14羽になりました」。震災に余生をほんろうされたみどりさんは帰郷を果たせず、昨年8月10日に99歳で亡くなった。「もう少しで100歳だったけど、天寿を全うし、万歳って送りました。かあちゃん、良かったねって」。

ただ遺骨を故郷に届けることはできなかった。亡くなる直前の7月29日。全国で唯一、新型コロナウイルスの感染者がいなかった岩手県に、感染者が出た。「葬式に兄たちも来られなかった。遺骨は(岩手県内の東北新幹線の)北上駅まで持って行き、兄に渡しました。そこでお別れでした。分骨はしましたが、今も(コロナ禍で)墓参りには行けていません」。

あの日から10年。「(震災は)過去ではありません。コロナ禍が収まれば、僕は歌手として1日何千人に会える。おふくろの体験を通して、津波だけでなく自然災害の怖さをこれからも伝えたい。風化させないことが使命です」。復興の象徴的な歌となった「北国の春」を、これからも歌い続ける。【笹森文彦】

◆千昌夫(せん・まさお)本名・阿部健太郎。1947年(昭22)4月8日、岩手県陸前高田市生まれ。65年に作曲家・遠藤実氏の門下となり、同年に「君が好き」でデビュー。66年に「星影のワルツ」がヒット。77年の「北国の春」は中国、シンガポール、マレーシア、タイ、台湾などアジアでも大ヒット。79年に第21回日本レコード大賞ロングセラー賞を受賞した。このほか「夕焼け雲」「津軽平野」「味噌汁の詩」などがヒット。血液型O。

○…11年11月に千が発表した「いっぽんの松」は、高田松原で1本だけ残った「奇跡の1本松」が題材。その歌碑が陸前高田市内にある。歌碑には作曲した船村徹氏が揮毫(きごう)した「孤松巌上(こしょうがんじょう)」が刻まれている。意味は「岩の上にぽつりと残った松。しっかり根を張って、波に流されようが、何が起ころうが、一生懸命頑張って行こう」。千は9日のNHK総合「うたコン」に出演する予定。