聖火リレーは25日、宮崎県に入った。陸上競技や柔道で五輪選手を多く輩出している旭化成のある延岡市では、1964年東京五輪男子50キロ競歩で代表選手となった三輪寿美雄さん(88)がきれいなフォームで約200メートルを“完歩”した。

延岡市の繁華街を右手でトーチを高く掲げて、左手は現役時代のように大きく前後に振って、しっかり地面を踏みしめる力強いフォームで後半の登り坂も克服し歩ききった。「たった200メートルだけど疲れた。体力は落ちてるね。でも、気持ちよかった」と三輪さんは額の汗をぬぐった。

現在、三輪さんは延岡市で整体治療院の院長として現役で活躍している。若いころは、有力な陸上選手としてスカウトされたのではなく、一般採用枠で旭化成に入社した。「走ることが大好きで、フルマラソンも7回経験した。練習の虫でしたね」と三輪さんは当時を振り返る。

そもそもマラソン志望で練習を続けてきた。東京五輪の3年前、実業団九州一周駅伝で三輪さんは選手の補欠となり、当時の陸上部部長から「申し訳ないが出走した選手のマッサージをしてくれないか」と懇願された。「今では、その経験が生きたのか、退社して競技を引退でしから整体師となって、人さまの体をいじるようになった」と笑う。

マラソンへの断ち切れぬ思いはあったが、実業団九州1周駅伝の直後に再び陸上部部長に呼ばれてマラソンのタイムが伸びずに、今後どうするかの決断を迫られた。マラソン競技者の引退を決意していたが、部長からは「競歩をやってみないか」とのひと言で転向した。

当時、旭化成は競歩ではリコーに遅れをとっていて、即戦力となる人材に苦慮していた。そこで三輪さんに、白羽の矢が立った。

両足が地面から離れてはいけない競歩のフォーム修得に苦しみ、転向後しばらくは審判から再三、注意を受けていた。ある日、日本陸連の強化部長に呼ばれて「おまえ、やる気はあるのか」と問われて、熱いまなざしで「あります」と返したらアドバイスしてくれた。「いいか、かかとから地面につけてつまさきで蹴るのではなく、指の付け根、いや土踏まずで地面を蹴り上げるつもりで歩け」のひと言だけもらった。次の日から、この言葉だけを信じて、毎日20キロ以上を歩いてフォームを固めた。

1961年10月、秋田県での国体で20キロ競歩に出場した。市街地に出るのではなく、競技場をひたすら50周した。日ごろの特訓が実り3位入賞。そのときの準優勝が石黒昇さんだった。石黒さんは競歩界のエースだったが、急造選手の三輪さんとは同い年だったので気が合い、親交を深めるようになった。

石黒さんとは64年東京五輪の50キロ競歩でともに日本代表にも選ばれた。石黒さんが23位、三輪さんは27位だった。「いや、ふがいない。当時は練習ばかりしていて、本番で体が悲鳴をあげていた。今の私ならもっと体を休めることをアドバイスできたのにね」と話し「競技を引退して、私は整体師になった。石黒さんは後進の指導をして今の強い日本の競歩選手の基礎をつくられた。石黒さんがいなかったら、私も五輪には出られなかったし、今の強い日本競歩にもならなかった」。

石黒さんは今年2月11日に他界した。新型コロナウイルスの感染拡大の影響で延期されなければ、埼玉・戸田市の聖火ランナーとして、車いすで実娘かおるさんに押されながら、トーチを握るはずだった。「かおるさんから石黒さんの写真はいただいていました。下着のシャツの胸の部分に石黒さんの写真を縫いつけて一緒に歩きました」と胸に手をあて「この火が東京まで引き継がれる。競歩の日本代表には悲願の金メダルを獲ってもらいたい」と言葉に力を込めた。

◆25日の聖火リレー 神話の里、高千穂町からスタートして、延岡市では地元のマラソンランナー宗茂さん、猛さん(ともに68)の双子の兄弟がペアでトーチを握った。その後、日向市、高鍋町、西都市、宮崎市を巡り、この日の最終ランナーは競泳で04年アテネ五輪から4大会連続出場した松田丈志さん(36)だった。26日は日南市で92年バルセロナ五輪で後続選手にシューズを踏まれて転倒して「コケちゃいました」のコメントを残したマラソンの日本代表谷口浩美さん(61)、えびの市では女芸人おかずクラブのオカリナ(36=西都市出身)、男子柔道の井上康生監督(42)が走る。