千葉県旭市は、東日本大震災の津波で死者14人、行方不明者2人など、関東地方最悪の被害を受けた。同市内で宿泊施設兼海鮮レストラン「カントリーハウス海辺里(つべり)」を営む渡辺義美さん(77)昌子さん(75)夫妻は、NPO法人「光と風」を立ち上げ、震災直後から「復興かわら版」を発行。被災地の思いや経験を記録に残して継承するために、生の声を伝え続けている。

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3月1日付で、第65号が発行された。成人式を迎えた助産師を目指す女性の思いなどを掲載。11年間、取材と出稿を担当してきた昌子さんの体感では「(この女性と同じ)当時小学校3年生だった子くらいまでしか(震災の)記憶が鮮明に残っていない。知らない世代がどんどん増えていく」。昨年3月時点でスタッフの高齢化などを理由に継続可否を検討したが「やめてしまうと震災も人も見えなくなってしまうと思った。これからも、体力が続く限り、被災の状況を伝えていこうと思っています」。写真でなく似顔絵を添えるのも趣深い。

発行当初は、津波被害から立ち上がろうとする人、店、企業などにスポットを当ててきた。だが、近年は少しずつ内容も変化。最新号は、震災時には親世代が経営者だったが、代替わりして発展に挑んでいる“後継者”がテーマ。海水浴を含む観光客減少も含めてSNSなども活用して若者にも会席料理を楽しんでもらう苦労や、震災後の潮流変化で主力だったシラウオなどの漁獲量激減に対応しながら地場水産業を守る思いなども取り上げている。

きっかけは市民らの大地震への無知が死者を生んでしまった思いだった。自身も発生時は、旭市が一望出来る高さ60メートルの高台にある「海辺里」で、津波の猛威を見つめたが「家が流されたりという被害が起きていることを想像すら出来なかった」。海岸近くの自宅が床上浸水し、知人の死などで徐々に現実に。「遠浅の海は大きな津波が来ないんだと信じていた。ここでも死者が出ることを何とか記録に残して伝えていこうと思って始めたんです」。同3月末に高校教師を定年退職したことも機に、後世に実情を伝える使命感が芽生えた。「最初は『他人のあなたに何で話さないといけないんだ』と追い返されたこともありますが、『話を聞いてもらって心が軽くなった』なんて言われると、やってきて良かったなと思えます」。

義美さんも「東北は被害にあった人も多いので、若い人までが語り部として伝えてくれているのが良いこと。旭市は被災者も高齢で語り継ぐ人がいない」。かわら版が伝承者の役割を担っていく。【鎌田直秀】

◆復興かわら版 11年5月から聞き取りを開始し、同7月に第1号が完成も、取材対象者の「やっぱり被災したことを知られたくない」との意向で配布見送り。同10月の第2号から配布を開始。今年3月1日に第65号を発行した。最初の約5年間は毎月発行、その後は数カ月に1回。部数は多い時で7000部。現在は被害の大きかった飯岡地区では全戸配布し、市内は回覧板で回す。幅広い年代に見てもらえるよう、ネット配信ではなく紙発行にこだわる。これまでに個人238人、企業や商店81件を取材。似顔絵担当は同市出身の南隆一さん。

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津波で全壊した工場を約2年かけて再建した旭市の米菓会社「山中食品」山中武夫社長(69)は、津波に耐えて残った石門にかかる看板の文字を書き直して「3・11」を迎える。奇跡的に地域住民に発見された看板を、昨年末まではそのまま取り付けていたが「10年以上たって山中食品の文字が消えてしまったし、表面をきれいに削って、はっきり見えるように新しく書いてもらった」。心機一転の象徴でもあり、あらためて「しぐれ揚」「雷鳥」など、愛され続けてきた商品の味を後世に継承する。「とにかく生産者として、おいしい、こだわりの商品をつくっていく」。震災後に全国各地から届いた激励の手紙が力となっている。

工場規模は約半分に縮小し、おかきなどの焼き菓子は復活していないが、工場直売店で「新味」を販売し、お客さんと商品開発していく姿勢は変わらない。後継者にも「娘はいますけれど、先のことは分からない。まだまだ若々しく頑張らないとなあ」と笑った。

 

◆千葉県旭市 県北東部に位置し、県内1位の農業産出額。特産品はナシ、イチゴ、メロン、キュウリ、マッシュルームなどに加え、イワシやシラウオなどの漁業や、豚などの畜産業も盛ん。刑部(ぎょうぶ)岬からの眺望は日本夕日、朝日、夜景などの百選。人口は約6万2800人。主な出身著名人は元プロ野球石毛宏典氏、お笑いコンビ「空気階段」鈴木もぐら、漫画家ちばてつやは幼少期を過ごし「あしたのジョー」石像も設置。米本弥一郎市長。東日本大震災の津波到達は第1波が午後3時50分ごろ、最大7・6メートルの第3波が同5時25分ごろ。死者14人(関連死1人)、行方不明2人、家屋倒壊3829戸。震度は5強。14年には防災資料館を設置。