ヌーベルバーグの旗手と呼ばれたフランスのジャン=リュック・ゴダール監督が先月、91歳で亡くなりました。直訳すれば「新しい波」となる、この映画運動は50年代後半に始まりました。映画史にはこれ以外にも「新」が付く運動、作品群がいくつかあります。何が新しかったのでしょうか、そして今の映画界に、どんな影響を残したのでしょうか。【相原斎】

02年、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した71歳のゴダール監督は日本で初めての記者会見に応じました。

溝口健二、黒沢明、小津安二郎、成瀬巳喜男と名前を挙げ、日本の巨匠たちをたたえる一方で「大島(渚監督)の『青春残酷物語』は真のヌーベルバーグだ。北野(武監督)も素晴らしい。私は『HANA-BI』が気に入っている」と当時の現役監督にもエールを送ったことが記憶に残っています。やはりヌーベルバーグ的な作品が好きなのだなと思いました。初期の大島監督のセンセーショナルな作品は「松竹ヌーベルバーグ」と呼ばれ、北野監督の即興的な演出もその流れをくんでいると言えるでしょう。

何が新しかったのでしょうか。ゴダール監督の長編デビュー作であり、代表作となった「勝手にしやがれ」(60年)は、フランソワ・トリュフォー監督(84年=52歳没)が原案、クロード・シャブロル監督(10年=80歳没)が監修と、ヌーベルバーグの主要メンバーが集った記念碑的作品です。

この作品では、衝動的に警察官を射殺してしまった自動車泥棒(ジャン=ポール・ベルモンド)と、自由奔放な駆け出しの女性ライター(ジーン・セバーグ)のカップルが刹那的に生きる姿が描かれます。

今では当たり前かもしれませんが、街頭に出たカメラはパリの生活を生き生きととらえます。登場人物のアクションの途中に自在に切り替えるジャンプカットも新鮮で、主人公がカメラのレンズを通して観客に直接語りかけるという、意表を突く演出もありました。

ロケ撮影中心、同時録音、即興演出によるみずみずしく、生々しい描写。スタジオ撮影中心だった当時の「常識」にとらわれない自由奔放な手法がヌーベルバーグと呼ばれ、今ではその多くが映画撮影の「常識」として定着しています。

撮影所の下積みを経て、ようやく監督に昇格できる従来の「徒弟制度」とは一線を画し、短編製作からいきなり監督デビューする人がほとんどでした。

「ラストナイト・イン・ソーホー」のエドガー・ライト監督は、ゴダール監督への追悼コメントの中で「ゴダールほど多くの人々にカメラを手に取り、撮影を始めるように仕向けた監督はいなかっただろう」と語っています。学生時代の自主映画からいきなり商業監督デビューする例は、今では珍しくなくなりましたが、その原点はヌーベルバーグにあったのです。

既成の映画界への反発はこの時代の世界的潮流でもありました。イギリス・ニュー・ウェイブは、上流階級にスポットを当てたそれまでの英国映画とは対照的に労働者階級を主人公にすえた作品群でした。後に名作「ホテル・ニューハンプシャー」を撮ったトニー・リチャードソン監督もこのグループの出身です。

60年代半ばすぎに幕を引いたフランスやイギリス「新潮流」とは違い、80年代まで息長く続いたニュー・ジャーマン・シネマからは「パリ、テキサス」のヴィム・ヴェンダース(77)。「新」は付きませんが「ポーランド派」と呼ばれた同国の運動は「鉄の男」の名監督アンジェイ・ワイダ(16年=90歳没)を生みました。

ヌーベルバーグに話を戻すと、ブリジット・バルドーやジェーン・フォンダとの結婚歴がある「モテ男」ロジェ・ヴァディム(00年=72歳没)や、「死刑台のエレベーター」のルイ・マル(95年=63歳没)もいます。時代は少し下がりますが、「男と女」のクロード・ルルーシュ(84)や「サムライ」などの異色作があるジャン=ピエール・メルヴィル(73年=55歳没)もこの流れに入ります。

後に巨匠と呼ばれた人の多くが「新」が付く運動の中から頭角を現したのです。

歴史をさかのぼると、戦後間もないイタリアで反ファシズムの機運から生まれたネオレアリズモ(新写実主義)があります。

ヴィットリオ・デ・シーカ(74年=73歳没)の「自転車泥棒」(48年)は、ほぼ全編ロケ撮影で戦後の貧困にあえぐイタリア社会をリアルに描き出しました。父親役には失業中の電気工だったランベルト・マジョラーニをスカウト。息子役のエンツォ・スタヨーラは監督自身が街中を歩いて見いだしました。

若い作家たちが映画論を戦わせて生みだし、知的な匂いのするヌーベルバーグに比べると、こちらは大戦後の荒廃の中からやむにやまれぬ思いで生まれた潮流です。「無防備都市」(45年)のロベルト・ロッセリーニ(77年=71歳没)、「揺れる大地」(48年)のルキノ・ヴィスコンティ(76年=69歳没)。後にイタリア映画界を支える重鎮はいずれもこの運動の中から出ています。

「無防備都市」の脚本には、当時24歳のフェデリコ・フェリーニ(93年=73歳没)も参加しました。ロッセリーニ監督には後にトリュフォーが助監督として付き、ヌーベルバーグへの多大な影響を与えたことでも知られています。ヌーベルバーグの生みの親とも言えるのです。ブロードウェー・ミュージカルの演出やマリリン・モンロー主演の「帰らざる河」で知られるオットー・プレミンジャー監督(86年=80歳没)は「映画の歴史は二分される。『無防備都市』以前と以後だ」と言い切りました。「新」が付く映画運動はロッセリーニから始まったと言っていいかもしれません。

「揺れる大地」ではフランチェスコ・ロージ(15年=92歳没)とフランコ・ゼフィレッリ(19年=96歳没)が助監督を務め、ジュゼッペ・トルナトーレ監督(66歳)の「ニュー・シネマ・パラダイス」の中にはこの映画が上映される印象的なシーンがありました。イタリア映画にはネオレアリズモの思いが今も脈々と流れているのです。

時代は下りますが、ヌーベルバーグが終わろうとしていた60年代の後半、アメリカン・ニュー・シネマという作品群が現れます。ベトナム戦争にまい進する政府に反発する若者層の心情を反映し、アーサー・ペン監督(10年=88歳没)の「俺たちに明日はない」やマイク・ニコルズ監督(14年=83歳没)の「卒業」などの名作が生まれました。

ハリウッド黄金時代の勧善懲悪や夢のような恋物語とは対照的に、反戦運動で荒れる世相を反映したアンチ・ヒーローと悲劇的結末が特徴です。

思春期が重なった私自身には思い入れの強い作品が多く、リアルタイムでエネルギーを実感しました。

ピーター・ボグダノヴィッチ、アーサー・ペン、マーティン・スコセッシ、フランシス・フォード・コッポラといった個性的な映画作家たちがこの流れを支えました。

70年代半ばを過ぎると、スティーブン・スピルバーグ監督(75)の「ジョーズ」が公開され、「ロッキー」「スター・ウォーズ」など明るいエンタメ作品のヒットが続きました。再び娯楽大作が注目されるようになったのです。

とはいえ、黄金期のハリウッド作品に比べれば、多くのダーク・ヒーローが登場し、その胸の内も深く描かれるようになりました。ハッピー・エンドばかりでなく、ほろ苦い幕切れも増えました。「新」が付く映画運動がもたらした変化といえるでしょう。

一方、日本には60年以上にわたって従来の撮影システムを貫いてきた人がいます。大島渚、吉田喜重、篠田正浩-松竹ヌーベルバーグと呼ばれた、才気走った若手監督が大船撮影所を離れたとき、独り松竹に残ったのが山田洋次監督(91)でした。2年前の松竹100周年の機会にこの時の心境を尋ねたことがあります。

「大島君たちはテーマ性にこだわった。僕は何というかなあ、小津安二郎みたいなものは作るもんかと思っていたけど。人間を、その生活を手に取るように描く-当時は古くさいといわれたけど、そこから離れられなかった。おのずと大島君たちとは道が分かれた」

時々の社会情勢を取り込みながらも、ずっと市井の人々の心に寄り添って作品を作り続けてきたのが山田監督です。「新」が付くうねりは映画界に多くの変化をもたらしましたが、変わらないものもあるのです。

◆相原斎(あいはら・ひとし) 1980年入社。文化社会部では主に映画を担当。黒沢明、大島渚、今村昌平らの撮影現場から、海外映画祭まで幅広く取材した。著書に「寅さんは生きている」「健さんを探して」など。マイベスト1はフランソワ・トリュフォー監督の「アメリカの夜」(73年)。ヌーベルバーグ出の監督にしては珍しく、助監督経験を積んだこの人らしく、撮影の舞台裏で繰り広げられる悲喜こもごもがリアルでセリフの端々まで映画愛に満ちている。