中日、阪神、楽天の監督を歴任し、今年1月4日に膵臓(すいぞう)がんのため70歳で死去した星野仙一氏のお別れの会が19日、東京・港区のグランドプリンスホテル新高輪で行われた。13年に日本一を達成した楽天時代の歩みを振り返る。

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 仙台駅の西口を出て真っすぐ10分ほど歩くと、星野監督がいたマンションが見える。

 緑が多く区画の広い青葉区一番町の周辺を愛し、最も長い時間を過ごした。隣人、飲食店の従業員、イーグルスの選手に職員、番記者。杜(もり)の都にふさわしい空間で、ゆっくりと人間関係を育んでいった。

 29階に住んでいた。大通りに面した交差点の角にあり、遠く太平洋を望めた。「朝起きるといつも下を見て『アイツら、今日も来てるわ』と確認してから支度をして、降りてましたよ」。就任から監督付を務めた小池聡氏が教えてくれた。

 「なんや…」と番記者とのお茶会が始まり、2時間ほど談笑し、北目町通りを真っすぐ進んでJRの高架下を抜け、寺町を抜けて左に折れ、球場に着く。就任1年目の秋には、そんな習慣がついていた。

 還暦を過ぎ、土地勘のない東北にたどり着いた。1から学んで溶け込もうと努めた。宮城県史を読み込み、広瀬川の周辺を1時間ほど散歩し、青葉城公園の伊達政宗像を見上げた。「伊達政宗はロマンチストだったのかな。東北のみなさんは、温かくて親切。奥ゆかしすぎる節もあるが、人間にはさまざまなタイプがある。性格まで無理に変える必要はない。秘めた闘志をグラウンドで思い切り出すタイプもいる。それでいいのかな」。

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 最初から居心地が良かったわけではない。むしろ逆だったように思う。

 2011年4月7日の深夜、29階から非常ベルが鳴り響いた。

 地震から仙台に戻れない日々が続いた楽天が、甲子園球場で練習してから山形空港を経由し、ようやく地元に戻った日。東日本大震災の余震が発生した。

 避難所に直行し、子どもたちに向かって「負けるなよ!」と叫んだ。床に就いてすぐの震度6強に、星野監督は動揺した。「停電になって、何も見えない。真っ暗な中で家も慣れてないから、押してしまったんだ。しばらくしても暗いままだし、ベルも鳴りやまないから、歩いて階段を下りて田淵のところへ避難した」。田淵ヘッドが投宿していた駅前の老舗ホテルは、市内では数少ない自家発電装置を完備していた。

 「怖かったんだよ」。親友の部屋で一緒に寝た。

 自然に対して抱いた恐怖は翌日、もっと深く胸を突いた。宮城県の最南部にある山元町を訪れた。尾根のように県を貫通する仙台南部道路からの風景に、目を疑った。向かって左は荒野、右は田園。数キロ先の海から押し寄せてきた津波は、この道路が堤防の役割を果たして止まった。「道1本、ほんの数十メートル隔てただけで、水の流れがほんの少し変わるだけで、人生が変わってしまう。その人は何も悪くないのに」。自衛隊に案内され、波にのまれた小学校に入った。

 体育館の床が波に押されて剥がれ、天井まで届いていた。図書館にはふやけた児童書が散らばっていた。田淵ヘッドは固まったまま動けず、佐藤投手コーチは中に入らず泣いていた。星野監督はがれきをかきわけずんずん歩き、一番奥の理科室にこもったまま、10分ほど出てこなかった。

 嫌なことがあると、口をすぼめ大きなため息をつくクセがあった。全部吐き出してから「自然が憎い。オレの『頑張れ』なんていう言葉なんて、何の力も意味もない」と言って泣いた。

 避難所を回っても反応は薄かった。近寄ってくる人はまばら。同年代から「何しに来た」の冷ややかな視線を浴びた。東北を受け止め、受け入れられるのか。経験したことのない疎外感を感じた。留めていた心のタガが外れそうになった。

 「あの時オレは『困難、苦難は、乗り越えることができる人間にしか、降りかかってこない』と言った。カメラの前では『勝って勝って、勝ちまくるしかない』と言った。あれは強がりだったんだ。正直、焦っていた。本当に大変な目に遭った人は、たくさんいる。3・11が頭にこびりついていた」

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 自信をなくした。中日でも阪神でも、選手もファンも人なつこく「監督、監督」と人が集った。控えめな東北の人々は違った。楽天の選手たちも例外なく、同じ気質をまとっていた。

 寡黙な鉄平をキャプテンに指名したが、雰囲気が変わるに至らなかった。震災が起き、一刻も早く仙台に戻ろうと主張する選手の希望をはねた。埋めていかなくてはいけないはずの溝は深くなった。開幕を前に「みんなの優しさは十分に伝わった。今度は強さを示そう」と語りかけても変わらなかった。本拠地のファンも同じ。就任当時の本拠地には、甲子園球場の熱狂とは遠い空気が充満していた。

 「東北の人が、オレのこと好きじゃないなんて、分かっていた。それでいいよ。選手やコーチに嫌われようと、ファンに何と思われようと、最後に勝てればそれでいい。このチームは、まだ本当の意味で愛されてはいない。あらためて確認した。在任している間に、楽天を東北の文化として根付かせる。約束するよ。まぁ、見ていて。徐々にいくから。『戦う集団』に変えていくから。その過程をファンの方に一緒に楽しんでもらえたら、最高にうれしいんだけけど…」

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 2011年10月19日。シーズン最終戦前となるナイターの前に、飛行機に飛び乗り、大阪へ向かった。阪神監督時代にオーナーを務めていた久万俊二郎氏が亡くなり、お別れの会へ足を運んだ。

 無理のある日程は承知だった。とんぼ返りの機内で「久万さんは、オレのこと嫌いだったと思うよ。本人の前で『阪神が低迷する原因はあなただ。あなたが悪い』と言った。でも久万さんには懐があった。ちゃんと聞いてくれた。『金庫を開けてくれ』と言ったら、本当に開けてくれたんだから」と懐かしんだ。

 球場へと急ぐ仙台南部道路の車窓は、重機が忙しく行き交っていた。がれきが固められ、さら地となり、新たな生活を培おうとする東北のたくましい息吹があった。「イーグルスに行く時も、久万さんは快く送り出してくれた。やらなくちゃな。やるしかない。やるぞ」。地震について嘆いたり、阪神についてしみじみ語ることは、ここからほとんどなくなった。

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 「人前で話すとき、あらかじめ考えて壇に上がることはないな。どうしたって、飾ろうとするから。そのとき何を感じるかだ」。2013年の秋、リーグ優勝と日本一のお立ち台。胸の内を形にすると、こんな言葉になった。

 3年前の震災から考えると、みなさんの苦労を少しでも和らげようと思って。孫には年を取りすぎて、子どもにしては若すぎる選手たち。気迫とやる気は負けません!東北のみなさんと同じで、最後まで粘り強く、あきらめず戦いました。(9月26日)

 もう最高!12球団で一番厳しい環境の中で…よく私の罵倒(ばとう)に耐えた。東北の子どもたち、被災者のみなさんに、これだけ勇気を与えくれた選手を褒めてやって下さい!(11月3日)

 自然の前で無力さを悟り、葛藤を乗り越え、勝った。ただ「勝った」という表現が適切かと言えば、少し違った。

 人間の弱さを認め、でもこうべを垂れず、温かな視線を忘れず、周囲と寄り添って粘り強く、前に歩む。東北の人間と星野監督は源流が一緒だった。だから、大きな天災からたった3年目にして距離が埋まり、分かち合えた。東北で日本一を成し遂げたのは、人生の集大成として自然な帰結だった。【宮下敬至】


 ◆宮下敬至(みやした・たかし)99年入社。04年の秋から野球部。担当歴は横浜(現DeNA)-巨人-楽天-巨人。16年から遊軍。