わずか19行のベタ記事に、大正球児の無念が漂っている。1918年(大7)8月17日の東京朝日新聞。紙面の多くが欧州の戦局(第1次世界大戦)や米騒動に割かれる中、5面の下段に小さく「全国中学野球大会中止」の見出しが載っていた。主催の大阪朝日が16日午前10時に各校の監督、キャプテンを集め、中止の経緯を伝えた、とある。選手たちの反応を引用する。

「選手中には秋又は冬季に延期し是非決行されたしと希望する向もありしが学業の関係上全十四チームを大阪に集むるは到底不可能なる事を云ふべく」

延期を望む声が起きたが、中止は変わらなかった。優勝旗は前年優勝の愛知一中(現愛知県立旭丘高校)が再び持ち帰った。

コロナウイルスの感染拡大で史上初めてセンバツが中止となったが、夏は、この第4回大会(鳴尾球場)が米騒動による治安悪化で中止となった(41年には戦局悪化で中止)。急転という意味では、今回以上に悲劇的だった。8月14日の開幕に合わせ、既に14校が集結。13日には抽選会も行われた。だが、3日に富山で起きた暴動は全国に広まり、関西も例外ではなかった。開幕当日の14日に延期決定。結局、16日に中止の判断が下された。

選手たちの失望たるや、想像に難くない。100年以上前の声を直接聞くことは出来ない。各校の野球部史に痕跡を探した。

「関中選手が涙にくれている姿がありありと思い出される」(「岩手県立一関中学・一高野球部史」。中止後、一関中と対戦した岩手・福岡中の選手の言葉)

「大会中止を聞いたときは、全身の力が抜けるようだ」(「今治中・今治西高野球部史」)

連覇を狙っていた愛知一中の野球部史も詳しい。メンバーだった加藤高茂さんの述懐が残っている(一部、現代仮名遣いに改め)。

「米騒動で三人以上つれだって道路を歩くことさえ禁ぜられ、剣つき鉄砲の哨兵が要所要所に警戒に立つようになっては終に万事休すで空しく帰名した」

8月25日に新チームが始動し、最上級の5年生が新人教育を担ったが「全く髀肉の嘆(※注)、気が抜けたようなものであった」。無理もない。もっとも、前年覇者としての面目は保ったようだ。名古屋に戻ると「旧チームと試合をしたい」という申し入れが続いたという。

生前の加藤さんと交流があった旭丘野球部OB会副会長、薮下博さん(83)は「寡黙な人でしたね。一生懸命で、野球が好きで。文武両道だった」と懐かしんだ。高校野球の現状には「春、野球ができない。こんなに残念なことはない。やむを得ないとはいえ」と嘆く。再び「愛知一中野球部史」をひもとこう。おそらく、当時の部員が書き残したものだろう。こうある。

「我軍の遺憾やる方なし。然れども大優勝旗は尚我手に委ねられたり。これ我唯一の慰安たり。我ナインは来年再び東海優勝の栄光を荷ひて鳴尾原頭に奮戦せざるべからず。これ我野球部に下された重務なり。奮へ奮へ来年度の選手よ」

奮へ、奮へ-。卒業する者から後輩たちへ贈る言葉だった。思いに応え、愛知一中は翌年も東海大会を制し3年連続で全国出場を決めた。同校だけではない。涙をのんだ14校のうち、過半数の8校が連続出場した。確かに当時の出場校数は140にも満たず、今とは比べものにならないほど少ない。だが、無念をバネに頑張った。先人の姿勢は、令和球児のお手本にもなるはずだ。【古川真弥】

(※注)ひにくのたん=力を発揮する機会に恵まれないことを嘆くこと。中国の故事成語。